京山幸枝若師匠に聞く 幸枝一門と浪曲「会津の小鉄」 2022年2月号より
目次
1.一門と「会津の小鉄」
2.演目「文治殺し」
3.幸枝若師匠と小鉄
4.弟子に教えること
5.ちょっと浪曲今昔物語
1.一門と「会津の小鉄」
―本日は幸枝一門、幸枝若一門と浪曲「会津の小鉄」について、お話をお聞きします。まず、一門にとって小鉄とはどういった位置づけにあるでしょうか。
幸枝若:お家芸やね。
―幸枝若師匠でいうと「左甚五郎」もイメージがありますけれど、それとも違いますか。
幸枝若:「会津の小鉄」は幸枝から続いてるものであって、本当のお家芸。甚五郎は色んな人がやってる中で、先代の幸枝若が自分なりの甚五郎を作っていったものやから。「竹の水仙」だって昔からあるネタやし、それを自分流に変えたっていうのはすごいけどね。
―なるほど。では「会津の小鉄」は今でも幸枝師匠からのオリジナルのやり方が受け継がれているのでしょうか。
幸枝若:受け継がれてるね。だから甚五郎には幸枝節は出てこうへんけど、「会津の小鉄」をやると必ず幸枝節が出てくる。節を一回上げて、もう一回上げる幸枝師匠独特の節が必ずあるんよね。うちの師匠も師匠(初代幸枝)のがこべりついてるから、そこにいかんと満足できへんねん。これができへん時は「今日はアカンかった」ってなってた。
―先代の幸枝若師匠は自分流の浪曲を生み出していったイメージがありましたけど、小鉄の節という点においては変わってないんですね。
幸枝若:変わらないね。やっぱり、ここは絶対残したいと思う。俺もそれができへん時は自分が納得できないし。どうしてもしんどくて誤魔化してしまう時、お客さんには分からなくても、今日はアカンってなるな。
―「会津の小鉄」の源流が幸枝師匠にあると聞くと、幸枝師匠がどんな浪曲をされていたのか気になるのですけど、音源はほとんど残ってないですよね。
幸枝若:晩年のやつがカセットであるけど、声が伸びてないね。ホンマはここからガンッといくところが丸く落ちてしまってる。初代幸枝の若かりし頃はレコーディングがそんなになかったんよね。それで晩年になって、サワリのとこだけをSPに吹き込んだりはしてるけど。だから、「会津の小鉄」といったら初代幸枝若から始まったと思ってる人も多いかもしれないね。現にCDも沢山出てるし、YouTubeでもそやし。そういう意味ではうちの師匠が得してる部分かもしれん。
―先代の幸枝若師匠はシンボルのような存在になってますよね。
幸枝若:それは時代がそうさせたっていうものやろうけどね。うちの師匠が言うてたけど、新歌舞伎座、今のビックカメラで浪曲大会1か月とかやった時には毎日満席やった。その時でも超人気があったのは幸枝やったと。
―幸枝師匠の活躍した時代的なもの影響して、一般的な記録にあまり残ってないけれども、浪曲全盛のころにそれだけ人気を博した偉大な方だったのでね。
幸枝若:そうやね。うちの師匠も若いころは幸枝そっくりで、自分でも幸枝を継げると思って、世間からもそう思われてる部分はあったと思うんやけど、実際は幸枝丸師匠が継ぐことになって、その時に泣いたって言うてたね。「なんで俺違うんや」って。それを曲師だったうちの母親が「そんなもん、幸枝より幸枝若の方がええって言われるようなったらええねん」ってケツ叩いて奮起させたみたいやけど。そういう意味では、その時に言われたことを実現できたんかもしれんね。
2.演目「文治殺し」
―師匠は初代幸枝若師匠が「会津の小鉄」を口演する姿を何度も見られていますが、初代にとっても特別な演目だと感じることはありましたか。
幸枝若:特別やね。小鉄をする時はむっちゃ緊張してるね、舞台袖から。目つむって気合い入れて。
―音源を聞いていると、本編入るまではリラックスされているイメージでした。数ある小鉄シリーズの中でも特に思い入れを感じた演目はありますか。
幸枝若:それはやっぱり全身全霊を込めれたのは「文治殺し」じゃないかな。
―どういったところから感じましたか。
幸枝若:それは、ひとふでのとっつぁんが自分の子どもでない文治を育てて、自分が引退した後に文治が殺されてっていう、ハッピーエンドじゃない、そこへの心情の持っていき方。
―「文治殺し」って40分くらいある演目で、その中でひとふでのとっつぁんが登場するのは最後の10分くらいですが、そこに見せ場が詰まってるのですね。
幸枝節:駕籠屋の場面があって、橋本金五郎のところで文治が謝りながら死んでいく、その死に様を橋本がひとふでに知らせる。カッコ良さもあるし、何とも言えない気持ち、涙が出るような人情もあって。だから節も難しくて。幸枝節の全てが入ってると言っても過言ではないんじゃないかな。親子の情とかね。生みの親よりも育ての親やっていう、その心情。あそこを表現できるっていうのやっぱりすごい。子どもの頃からやってる昔の浪曲師でも50過ぎないとできないんじゃないかな。味というかね。自分が親になって、子どもを育てて、立派になっていく姿、それを経験して、ひとふでのとっつぁんの立場に立つと自然と涙が出てくるやろし。泣いたら声が出えへんから、それを我慢しながら、ガッと絞っていく声。あれがなかなかできない。
―それは浪曲の技術だけでなく、一個人としての経験が反映されるのですね。
幸枝若:だから一番魂が入ってる。
―初代の幸枝若師匠がそこまで登場人物に入り込んで演じているイメージがなかったです。
幸枝若:入り込んでる。横から見てても、瞼に涙ため込んでるのが見えたり。ホンマに戸板の上の文治にとりすがって、「文治…」って言う時には涙流したからね。
―そこまでやれるからこそ、お客さんに伝わるものがあった気がします。
幸枝若:それが表現できるようになるには相当かかる。だから、俺らでも「文治殺し」やるのは難しいもん。よっぽどそういう気持ちになれた時は別やけど、形だけになってる部分はいっぱいある。入り込んでいけないところが。
―そうなんですね。
幸枝若:できた時もあんねんで。それが忘れられへんねんな。
―ちなみに、師匠も「文治殺し」をされる時は事前に演目を決めて気持ちも高めているのですか。
幸枝若:そう。だから、楽屋でもベラベラ喋らへんし。自分をずっとその方向にもっていって、舞台に向かう。
―師匠は演目を決めずに舞台に上がっているように見える時がありますけど、そういう時に「文治殺し」は選択肢に上がらないのですね。
幸枝若:それはないですね。
昔、近鉄劇場で幸枝一門で「会津の小鉄」連続読みやった時に、自分がモタレで「文治殺し」で、トリで幸枝栄師匠が「山崎迎え」をやるはずやったけど、当日なって幸枝栄師匠、嫌がったもん。順番逆にしてくれって。「文治殺し」やった後で、「山崎迎え」できひん、やめやって。
―当日にそんな話が。
幸枝若:ポスターにも順番書いてたからね。それでもしつこいから、俺もヘソ曲げて、「もうええ、俺もうこんな企画出えへん」って言ったら、二人目が始まったくらいに幸枝栄師匠が楽屋来て、「ごめんな、やっぱり私最後出るから」って。初めからそう言ってくれやって(笑)。でも、それだけ幸枝栄師匠もわかってるんですよ。「文治殺し」がすごいネタやっていうことを。これは先代が亡くなって、5年くらい経った時にやった追善企画やったかな。その時は一回腹立って気持ちに邪魔が入ったけど、気を取り直して頑張った記憶が今出てきたわ。
3.幸枝若師匠と小鉄
―ちなみに、師匠が初めて「会津の小鉄」をされたのはいつですか。
幸枝若:先代が亡くなってからかな。
―それまでなかったのですか。
幸枝若:先代がいつやるか分からへんから、それまでは甚五郎もやし、やらへんかったよ。
―先代が出てない会でも。
幸枝若:うん。なんば花月で「竹の水仙」はやったわ。小鉄はやった記憶がないから、おはよう浪曲にも残ってないんちゃうかな。それで一番最初に覚えたのは「新門との出会い」で、その時分「文治殺し」はちょっと難しいなと思って。その頃は先代を聞いている浪曲通の人がいっぱいいてはって、恥ずかしいって気持ちがあったから。
―先代と比較されてみられますもんね。
幸枝若:先代は50過ぎたらほとんど小鉄やってなかったけどね。
―師匠も先代の記憶辿ったり、音源を聞きなおして小鉄を覚えていったのですか。
幸枝若:そうやね。30くらいのテープ聞いたら幸枝師匠によう似てる。ほんで40過ぎたら貫録がでてきてるわ。ええなあって思う節があったら、それは絶対やりたいけど、それができない日は悔しくてな。でもプロとしてそういう悔しい気持ちはもっとかなアカンな。
―師匠が初めて満足できる小鉄ができたのはいつか覚えてますか。
幸枝若:平成6年か7年の郵便貯金ホールの大会かな。一番自分のええ時やな。40過ぎくらいで、思いっきりやれる時やったね。どこも体悪くないし(笑)
―(笑)
幸枝若:小鉄は難しいけど、今余計に難しくなってきたんよ。浪曲を聞き込んでくれる人が少なくなったから、わかりやすいネタやったら喜びはるけど、難しいネタはなかなかウケなくなってて。昭和30年代、40年代はまだ浪曲にうるさいお客さんがいて、「節をもっと上げろ」とかお客さんに言われたからね。その代わり、いい舞台ができたら褒めてくれる。
―師匠が納得できる浪曲とお客さんが望む浪曲が一致してたのでしょうね。
幸枝若:そういうこと。それは何でかって言うと、同じ時に、沢山の名人を見て、聞いてたから。
4.弟子に教えること
―幸太さんが「会津の小鉄」連続読みを始めることについてお聞きします。先ほど師匠は「会津の小鉄」をやり始めたのは先代が亡くなってからと言ってましたが、師匠は今の段階で幸太さんに「会津の小鉄」を教えています。それはどういった理由からでしょうか。
幸枝若:俺がまだ40代やったら「まだやらんでええ、大井川とか雷電やっとけ」って言うかもしれん。それでええんやけど。実際は先がないんでな(笑)。
―いやいやいや(苦笑)
幸枝若:それもあるし。幸太は持って生まれた才能もあるけど、それでも小鉄をものにするには20年はかかるな。年間100の仕事のうち、50を小鉄でやってたら20年後はピカイチなってるんちゃうかな。
―師匠としては幸太さんには今のうちから積極的に小鉄をやって、磨いていってほしいと。
幸枝若:やらなアカンし、こういう幸枝節の本流と言える節は他のネタにないから。それから上下の幅がこんなに広い浪曲はないから。上の声は高い、下はまた低いもん。この幅の中で自由に節が使えるから、色んな節が使えるようになる。
今の浪曲師は甲の声を上の音でとってて、それは自分が出せる高い声でとってるから、それやと落としきられへん。俺は幸太にはそうさせんと、調子上げて川べりで甲声取らせたけど。我々の時はよう「甲声とったか?」って聞かれたけど、今はそれも聞かへんくなったね。
―つまり、甲の音はどうやって決められるのでしょうか。
幸枝若:下で合わすねん。でも、下で合わすと甲の音が出ない、じゃあその出ない声をどうやって出すかっていうとこ。それが出た時に声の幅がすごい広がる。
―なるほど。幸太さんに声の幅を広げて浪曲をしてもらうためにも、今のうちから小鉄をさせて師匠が教えているわけですか。
幸枝若:そうそう。節はね、色んなん聞いて自分が使いたい節を考えたらええけど、上と下だけはちゃんと出さなアカン。だから、時々幸太にも、下が出てないとか言うてるな。高低差がないとダレて聞いてられへんからな。例えば松浦四郎若さんなんか、高い声を振り絞って出して、乙の声は落としていく。要するにメリハリやね。声のトーンもそう、絞った後に、バッーンと出すとか、大きい声出して、引く声出すとか、最後は押して押して「ちょうど時間になりました」って。
―メリハリがあることで惹きつける浪曲になるのですね。その点で師匠の目から見て、今の幸太さんの浪曲はどう見えてますか。
幸枝若:幸太の場合は30までに売れるために、色んなことやったらええ、その代わり基礎の浪曲は陰でちゃんと勉強しとくように言ってる。4年目くらいに一回ルーズになってて、西中島でやった「小政の生い立ち」が情けないくらい節になってないし、節もセリフもなってなくて、たぶん小政なんていつでもやれると思ってネタ繰り直してなかったんやろな。だけど、どんなネタでもちゃんとやらなアカン。今のうちやからね。何をやるにしても気合い入れて取り組まんと。
あとはメディアに出て、人気をとってほしいな。実力をつけながら、名前と顔を売っていくのが大事で。まずは浪曲の基本とお家芸をしっかりやれるようになって、他のこともやっていく。歌舞伎でもそうやんか、しっかりと基本やって、スーパー歌舞伎とかやるから、ええんやと思うで。
―なるほど。押さえるべきが声の幅だったり、「会津の小鉄」なんですね。
幸枝若:そうそう。他にも言えることはいっぱいあるけど、自分で気づかなアカンこともあるから。今言っても分からへんことが、やってるうちに自分で気づくこともあるし。だから、今の幸太は上と下の音域の幅のある声を出していったらいいんじゃないかな。それで、30年後に人気、実力両方で天下とってほしいな。
―時期や段階に応じて教えることがあるのですね。
幸枝若:そう、だから、幸太も弟子をとったら同じように教えるんじゃないかな。
―それは師匠も先代から言われてきたことですか。
幸枝若:全然(笑)
―えっ(笑)。
幸枝若:全然ない。だから、(当時の浪曲界に)もっと育てる力があったら、今浪曲界こんなんじゃないかもしれん。みんな辞めずにいたかもしれん。でも、この世界は一人社長やから、弟子だろうが、息子だろうが敵やから、絶対教えなかったね。「お前おったら邪魔やから」そんな感じ。そんなんやったから、浪曲が今こんなんなってるわけで。
―なるほど。そもそも受け継がせる意識が生まれにくい条件だったのですね。
幸枝若:そうやで。そもそもセリフや節やってて、難しい芸能やねん。ただでさえ時間かかるねん。その分、極めたら何でもできるから。そう意味で、幸太にはそれができるようになって、人気者になってもらって、次の世代にもスターを作っていってほしいね。人気者になれば弟子もくるから。その時にどう育てていくか、それにかかってるわ。それがちゃんと教えられたら、世代は繋がっていくから。
5.ちょっと浪曲今昔物語
幸枝若:昔は興行師もいっぱいおったし、その興行師が元浪曲師とかね。自分は浪曲ではやっていかれへんけど、この世界好きやからやってるような人。その分、厳しい、うるさい。「あんな下手なやつ雇えるかい!」って。
―元プロの浪曲師という視点も持ってたわけで、目が利くと。
幸枝若:そうそう。そういう人たちがいて、めちゃくちゃ仕事があった時代を経験してるのは我々が最後の世代かな。
―そんなに仕事がありましたか。
幸枝若:だって俺18歳くらいの時、4月5月6月って休みなかったもん。
―浪曲にも繁忙期があったのですか。
幸枝若:農協の仕事がめちゃくちゃあるねん。1日3か所でも4か所でも掛け持ちして。
―農協って各地にありますもんね。それ一つ一つ回ったら大変。
幸枝若:今は農協も減ったけど、沢山あったからね。農協からお客さんへのサービスで興行師に頼むやんか、「京山、2時間持たせてや」みたいな。そしたら、うちの姫路のおとっつあんが「わかった」言うて。俺に「お前空いとおか?」って電話して。浪曲、漫才、マジック、音楽ショー入れてとかで組んで。「長男が運転手で行くから3か所掛け持ちや」とか言われてね。
―興行師が浪曲師以外の出演者も含めて一座を組んで、訪問先まで斡旋してたのですね。
幸枝若:暇なんは7月8月。河内音頭やってなかったから。先代はやってたから大忙しやろ。9月10月は敬老会でまた忙しいやろ。ほんで、11月12月は旅があったもん。10日間くらいの。
―巡業ですか。
幸枝若:巡業したり、浪曲大会出たり。めちゃくちゃ仕事あったからね。だから、俺はよう言うんやけど、先代は5歳からお父さんに連れられて巡業して毎日浪曲して30代の時にはもうオッサンの声やったからね。頭もオッサン刈りやし。
―オッサン刈り(笑)
幸枝若:オールバック(笑)。
―よく実践に勝る練習はないと言いますけど、浪曲を鍛えるにはこの上ない条件ですよね。
幸枝若:そうやで。俺ら高校生からやって勝てる道理がないやろ。
―師匠でもそう思われたんですか。
幸枝若:だから、幸太だっていくら頑張っても俺に勝てる道理がないねん。実践の回数が違うから。けど、幸太に会った時には5年経ったら俺を抜けるって言ったけどな。なんでかって言ったら、若さ、舞台のキレイさ、息の伸びやな。でも芸の深さと歳は俺に勝てんぞって(笑)。
―師匠と同じ条件で修業を積むことはできないけれども、今の条件で人気と実力をつけていったらいいんですよね。
幸枝若:うん。幸太が得やと思うのは、先代のCDがいっぱいあるやん、俺の生の舞台も見れるやん。先代の音聞いて、良いところは真似したらいいし、動き方とかで迷えば俺の舞台見たら分かるし。俺はステップにするには一番ええと思うよ。大見本もあるわけやし。幸太はその辺はどういう風に考えてんの。小鉄や浪曲に取り組むにあたって。
幸太:小鉄は一番のお家芸やし、時代とともに変わるところはあったとしても、変えてはいけないところもある演題だと思うので。幸枝師匠の節とか。小鉄に関してはあんまり崩したくはないなと思いながらやっていて。あと、先日町田康さんとの対談で言われたのが、自分の世代でも先代幸枝若師匠からしたら若い世代やし、それぞれの世代が持つセンスってあるはずやから、それを入れていった方が良いということで、そこはうまいこと分けてバランスとりたいなと思います。
幸枝若:そうやな。世代はあるからな。一心寺でも、初めのころに来てるお客さんはもうほぼおらへんから。だから、俺はピントが合わへんこともいっぱいあるし。お客さんにグッと乗ってほしいところで全然乗ってもらえなかったり、くすぶりのつもりがえらいウケたり。変わってきてるよ。一生懸命「文治殺し」やっても、お客さんから「竹の水仙はいいですよねー!」とか言われてたり。そうですねって言うけど(笑)。
―師匠には張り合いがないですね。
幸枝若:確かに面白いネタやよ。でも、「(竹の水仙)がいいですね」とか言われるとな。
古典は大事にしながら、新しい現代のもやらなアカンから。「十三の帝王」なんかええんちゃうかな。自分が作ったものが死んで後に古典となるかもわからへんからね。幸太の弟子の弟子には「オモロイけど、古いな」って言われとるかもしれん。でも、それはそれでええと思う。面白さっていうのはその時の面白さが出せたらええんとちゃう。
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