初代・真山一郎を語る 2022年3月号より

目次

1.初代・真山一郎を語る

2.「慶安太平記 由井正雪東下り」

3.2022年の目標


はじめに

今回のインタビューを通して、私も初代真山一郎先生について今回初めて知ることが多かったです。若い頃にこっそり歌手デビューしたとか、演歌浪曲を打ち出したとか、エピソードだけでなく、背景まで聞くことができたので、真山一郎先生の人物像や浪曲への想いにも少し触れられたと思います。

さて、インタビューの前に登場人物や言葉を紹介しておきます。

初代真山一郎…隼人さんの大師匠。演歌浪曲というジャンルを築いた。2021年12月逝去。

華井新初代真山一郎の師匠

華井新十郎…初代真山一郎が華井新一座にいた頃に名乗った名前。

演歌浪曲…全編のオーケストラの浪曲。初代真山一郎が打ち出した。歌謡浪曲は全編ではなく、演歌浪曲以前からあった。


1.初代・真山一郎を語る

―今回は昨年12月に亡くなられた初代真山一郎先生について、どんな浪曲生活を歩まれた

のか、また孫弟子の隼人さんから見た人物像など聞いていきます。

まず、真山一郎先生は高校を出られて、すぐに華井新先生に入門されてますよね。入門の

翌年から二枚看板になっいてたと聞きましたが、なぜ 10 代の青年が入門一年でそこまでに

なれたのでしょうか。

隼:これはぼくの見解ですけど、結局浪曲っていうのは一人一芸なんです。華井新と言う人

は華千代譲りの文芸物を得意として、元々歌舞伎の女形やったことも生かして、歌舞伎の所

作を取り入れたちょっと芝居がかった浪曲をやってたんです。それに対して、真山一郎は弟

子入りした後、師匠の真似しててもアカンからというので、色々自分の感じを探り始めて、

結果的にやっぱり才能があったんでしょうね。

―それにしてもすごいですよね。

隼:先生が言うてたのは、浪曲は天性の声が全てじゃと。こぶしが回る回らないも含めて。

才能やと。そう言うくらいやから、先生自身才能があったんでしょう。

―子どもの頃から浪曲に触れてはいたのですよね。

隼:そうです。親が旅回りの浪曲師の世話してたんですよ。だから、浪曲が身近にある環境

でした。「 5歳の時に近所のお寺で佐渡情話を唸った。これが初舞台じゃ」って言ってま

したね。

戦争中に学校で伊丹先生の浪曲「杉野兵曹長とその妻」をやって、戦争で忙しい時に何を

やっとるんじゃって学校の先生に怒られたり。入門前から色々と浪曲はやってて、好きやっ

たみたいですよ。

―なるほど。入門前から浪曲の下地は相当できてたわけですね。隼人さんの家にも華井新先生と華井新十郎の二枚看板のポスターがありますが、あれはいつ頃のものですか。

隼:華井新十郎になるのが 1948年からやから、それから 1957年の間ですね。 1950年前後でしょうかね。

― 1947年入門なので、10年以内に相当のキャリアを積まれてますよね。

隼:華井新という人はすごい芸の人ですよ。それでも、僕が聞いたとこでは、花形の新十郎

の方が一座で人気出ちゃったわけです。華井新の公演に行けば、新十郎を観れるみたいな。

―男前も影響したのかもしれませんね。

隼:男前ですよ。浪曲界にはなかなかないタイプの男前ですね。それでマドロスものやった

り、双葉の松やったり。

―それほど人気があったのになぜ歌の世界にいかれたのでしょうか。

隼:皆が歌にいってたのもあるでしょうし、結局師匠と違うジャンルで自分のジャンルを確

立するために歌謡浪曲となったんでしょうね。

―歌謡曲を出す前に、歌謡浪曲をやってた時代があったのですか。三味線浪曲から突然、歌

謡曲にいったのかと思ってました。

隼:ややこしい話なんですけど。華井新十郎が歌謡浪曲でより人気が出た。そうすると新十

郎も一枚看板で周りたい気持ちが出てくるわけですよ。それでも華井新側としては「頼むか

らいてくれ」となるわけです。お客さんを呼べるわけですから。

そういう状態になっている時、時代は歌の世界が盛り上がってきてる。そこでコッソリ吹

き込んだのが「内緒で御座る」なわけです。

―なるほど。華井新十郎の気持ちが歌に傾いていく理由がよくわかりました。

隼:ただ、実は「内緒で御座る」の前に浪曲を一本吹き込んでるんですよ。それが「夜の香

港」。

―先に浪曲を。

隼:浪漫歌謡って言ってるんですけど。節の部分に色んな喜怒哀楽の入った歌を入れてるん

です。ちなみに、この時、真山一郎 26 歳!

―若いですね。

隼:今の僕と同じ時に吹き込んでるんです。僕は真山一郎作品で一番好きなのはこれです。

夢がある!明日に向かって、僕はやるんだっていう。

―華井新先生のところ留まるかいなか。しがらみや葛藤の末に自分で踏み出した一歩とい

った感じでしょうか。そして、これらのレコードをこっそりリリースするわけですよね。

隼:そうです。こっそり出したから「内緒で御座る」。

―それがいつのタイミングでバレるのですか。

隼:もう数日後にはバレるんですよ。お前吹き込んだらしいな、破門じゃてな感じで。それ

で一座も出されて、浪曲も出来へんのやったら、ちゃんと歌の勉強をしようとなって、東京

に行って、豊田一夫という人を師事して勉強を始めるわけです。それが 1957 年。

―ここまでで既に激動ですね。高校出てすぐに浪曲の世界に入り、若くして一座の看板にま

でなった。けれども、色んな葛藤があり、歌を吹き込んだ結果、破門されて、歌の勉強をす

るために東京へ行くと。

隼:26か 27歳くらいの頃ですね。

―この頃は完全に浪曲界から縁が切れてしまったと。

隼:破門されたけど、最終的には華井先生との関係は戻ったみたいです。華井先生も原爆の

症状で体の具合が悪くて、波紋してすぐ亡くなってるんですよ。それで亡くなる寸前に破門

は解消されてて、華井先生がなくなった後、追善の会もやってるんです。

―そうなんですか。最終的には師弟関係はあったわけですね。

隼:そうなんです。それでも自分は歌の世界でやっていこうと、マーキュリーレコードに入

り、次はキングレコードといくわけですけど、鳴かず飛ばずやったんですよ。「売れない、

売れない」となっていた時に、忠臣蔵の「刃傷松の廊下」は絶対に良いと提案した。ただ、

その当時のレコード会社の中には忠臣蔵を題材にした歌は売れないってジンクスがあった。

これを何とか売ってみせますっていうので、リリースしたら、結果大ヒットですよ。

―すごい。その「刃傷松の廊下」は歌謡浪曲ではなく、歌謡曲なんですか。

隼:5 分くらいの歌です。それがヒットして、キングで浪曲を吹き込む時に歌入の歌謡浪曲

としてレコードを出したわけです。

―すると、この「刃傷松の廊下」で歌手として知名度も得たわけですね。それ以来、歌手と

して活動されるのですか。

隼:二、三百曲出してますよ。

―えっ、そんなに。

隼:そうですよ。相当売れてた訳です。古い NHK の番組表見たら、 1960年代前半の歌番組に真山一郎はあちこち出演してるんです。

―完全に歌手として成功してますね。

隼:すごかったみたいですよ。明星のスター一覧とかにも載ってて。当時の資料を見たら、

えらい載ってますよ。高田浩吉さんや石原裕次郎さんの映画にも出たり。 1960年代、真山一郎は芸能界でそれなりのポジションを築いてたわけですよね。

―それほど活躍されていたとは全然知らなかったです。すると、逆に気になるのがその後の

真山一郎先生の動きです。この流れだと、三波先生や村田先生と同じように歌の世界を軸に

活躍されててもよかったのかと思いました。

隼:詳しいことは分かりませんが、今でも懐メロ番組で本人の映像が使われないですよね。

―そうなんですか。それがなければ、三波先生、村田先生とともに歌手として名前が残って

たかもしれないのに。

隼:それもあったでしょうね。歌舞伎座でリサイタルまでしてたんですから。

―そこまで人気もあったのに、何らかの理由で歌手として活動はできなくなってしまった。

隼: 1973年くらいですかね。それからは大阪に帰ってきて、ローオンレコードの専属になり、東芝にもいって。

―その後も浪曲師として、歌は出してるのですね。

隼:そうなんですよ。やはり演歌への思いはずっとあったんでしょうね。中でも東芝時代の

最大のヒットが河内の次郎長です。「番場の忠太郎」「松の廊下」と並ぶ、浪曲ファンなら誰もが知ってる真山一郎の代表作ですよ。

―歌手として全盛期だった時代の後に、もう一回ヒットを生んでるんですか。すごい人です

ね。本当に。

隼:そうなんですよ。だから、バイタリティ溢れる活躍をめちゃくちゃしてるんですよ。

―不死鳥ですね。この人こそ。

隼:そうです。だから今回僕が倒れた時も、先生が26歳の時の状況を考えますよね。それ

と比べたら、僕なんか屁みたいなもんやなと思います。

―大阪に戻ってきた頃に話を戻しますと、戻ってきてすぐは三味線も入った歌謡浪曲をさ

れてたんですよね。それが相三味線の東家菊栄師匠が引退されて、その後は西崎恵美子師匠

らが曲師を務めたそうですが、数年後には完全にオーケストラの演歌浪曲に移行を決断し

ています。菊栄師匠が引退しても曲師はいたのに、敢えて独自の道を選んだ理由はなぜなの

でしょうか。隼人さんなりの分析があれば教えてください。

隼:やっぱ菊栄師匠とは13年もいっしょにやってきたわけですから、いわゆる信用できる

三味線。この人がいるから僕は浪曲ができるんだっていう三味線。それが違う曲師の方に頼

んだ時に、できないと思うことがあったんじゃないですかね。

―真山一郎・東家菊栄として築き上げてきたものがあって、それをまたゼロから作っていく

気持ちは湧かなかったのかもしれませんね。それなら、自分独自の世界を作っていこうと。

隼:あと、聞いたのは元々歌謡浪曲の完成を考えてたわけです。

―そういう展望や目標もあったわけですか。

隼:だから、菊栄師匠が倒れる前にも「北方の故郷」のフルオーケストラ版は出してたんで

す。歌謡浪曲でない、浪曲ドラマとして。だから、前段はあったと思います。

―なるほど。演歌浪曲を始めてから、苦労された話は聞いたことありますか。啖呵も節も全

てオーケストラなので、歌謡浪曲とは違う難しさもあったかと想像するのですが。

隼:大変やったと思いますよ。ぼくは三味線の浪曲も演歌浪曲も両方経験してる身として、

えらい挑戦やったなと思います。浪曲は決まり事が多いと言いながらも、わりと自由な芸な

んですが、オーケストラは全て決め事にしていかないといけない。

―そうですよね。あと、その音源を作るのも大変じゃないですか。

隼:最初の頃は浪曲を知ってる人が作曲とかを担当してたから良かったんですけど、途中で

変わるんですよ。その人に変わった時は三日三晩その人の家に泊まりこんで、浪曲について

説明して作り上げた言うてました。「それぐらい大変やったんやぞ」って。「わしの三味線の浪曲を聞いてもらって、それで作曲してもらったんや」って。

―普通の歌謡曲の作曲とはきっと違いますもんね。まず、浪曲とは何か知ってもらうところ

から始まるわけですから。

隼:そうです。しかも、口演する時は今みたいにCDで音を出す訳じゃないんです。オープ

ンリールでやるんです。先生の奥さんが台本を見て台詞に合わせてバチッと押すわけです

けど、オープンリールが劣化すると止めてるテープが外れたり、再生と思ったら早送りやっ

たり、それなりに色んな失敗があったそうです。だから、先生にお会いした時に「お前いい

なぁ、MDで。わしのときはオープンリールやぞ」って言われましたよ。その後、僕はMD

やめて、サンプラーでやり始めて、その話を先生にしたら引退してるのに興味津々で、「そ

れ欲しいなぁ」って言いながら聞いてくださったり。

―演者として飽くなき探究心ですね。本当にすごいですね。色々激動を経て、最終的には演

歌浪曲という自分の道を見つけて、それをやりきったと。

隼: 1985年から引退する 2010年まで。25年間やりきりましたね。

―一つの世界を打ち立てましたね。

隼:芸術祭は真山一門は三味線でやってないから取れないっていうジンクスがあったんで

すよ。けど、先生は文化庁長官表彰もらってるんです。これは芸術祭大賞に値する賞だと思

いますよ。芸を突き詰めた結果、そこまで認められてるわけです。

幾度となく現れる困難を何回も跳ね除けて、バイタリティ溢れる人でしたよ。そして浪曲

が好きだったんでしょうね。

自分なりの浪曲を創作して、男一代真山一郎として浪曲を練ってきたわけです。北方領土

の問題があれば、「北方の故郷」という浪曲を作り、臓器移植の問題があれば、じん臓病移

植の浪曲をやり、これはやはり時代とともに生きる浪曲の姿やと思います。そして、誰より

も自分の世界を作り。歌謡浪曲を完成させた。だから僕が思う最高の歌謡浪曲は真山一郎で

すよ。

やはり先生の一門でよかったと思いますね。先生の一門やったからこそ、ぼくはやっぱり

自分なりのネタ、一人一芸という浪曲を目指したいと思いますし。

―三味線でやるかオーケストラでやるかの形の問題ではなく、浪曲を追求する姿勢こそ、真

山一郎先生から隼人さんが受け継いでいるものですね。

隼:僕が入門した時、師匠からは三味線ではやったらアカンと言われてたんですけど、先生

に会った時に「いい三味線がおるなら、三味線でやってもいい。でも、おらんやろ?」って

言うわけです。それから数年して、さくら姉さんとするようになって、協会で事務をしてた

中田さんが先生に電話して

中田「おたくのとこの隼人三味線でやり始めましたで。」

先生「そうか、わし教えてないけどそんなんやってるのか。」

中田「さくらさんていう三味線でちゃんとしてる人です。」

先生「そうか。それならええ!」

という形で承認はして下さって。先生が認めて下さったのは嬉しかったですね。

だから、やっぱり一番の憧れですね。僕も入門してから苦しいことも辛いこともありまし

たよ。それでも僕は真山の一門やと。真山を名乗ってるねんから、どんなことがきても跳ね

返してやると。誇りというのは大きいですね。


2.「慶安太平記 由井正雪東下り」

―次は「浪曲と活弁の夕べ」でネタ出しをしている「慶安太平記」についてお聞きします。

隼:これは大阪に伝わる由井正雪のクーデターの話ですけど。世界情勢を考えて、今やるべ

きか少し悩んだんですけど、それは関係ないなと。

―単語だけ聞くと物騒ですが、内容も主旨も全然違いますもんね。

隼:これは腐敗した権力に向かっていくやつらの話やから。それで、大阪に伝わる慶安太平

記を読み始めたら、これは浪曲には珍しいディズニー作品のような話やと。

―たしかに(笑)。ファンタジー要素ありますね。

隼:元々あれは廣澤晴海師匠の台本で、それを二代目幸枝師匠がもらって、それを協会預け

てくださったんです。それを元に自分で脚色もしてやってるんですけど、最後の最後まで分

からないストーリー。そして、ここには僕独自の解釈も入れてるんですが、男同士の友情も

ある。

あと、わりと慶安太平記って色んな人がやってるじゃないですか。

―今回の隼人さんがする場面とは違う場面ですが、神田伯山先生の松之丞時代のCDや談志師匠の音源でも聞いたことあります。

隼:慶安太平記を何冊か読むと、人によって話も違っていて、面白いんですよね。というこ

とは、僕も独自の形でやろうと思いまして、普通なら続き物にしたいとこですけど、敢えて

この「東下り」は由井正雪ともう一人の男にスポットを当てた、言うてみたら映画みたいな

感じにしてみたいと思ってます。

―「由井正雪 東下り」で完結するくらいの話として浪曲に仕立てるわけですね。そもそも

この演題をやりたいと思った理由はなんでしょうか。

隼:カッコいいなと思ったんですよ。

―カッコいいですよね。(ここでは書けないですが)あの場面とか。

隼:あれがやりたいんですよ!

―中央権力に対する反発心に潔さも感じますよね。

隼:そうなんです。あの部分を晴海師匠の台本で見つけて、これは今にも通じる、いけると

思ったんですよ。

―今にも通じますね。そこまではミステリーっぽい要素も感じるのですが。

隼:なので、伏線回収もしながら、ファンタジーもあり、最後はビシッと決める。

―いいですね。最後は大阪の台本らしい情もありますし。

隼:これが大阪の慶安太平記なんです。ホンマは由井正雪は静岡県の人ですから。でも、そ

ういう余計な情報をなくして作っているのです。

―活動写真との公演に選ばれた理由はなぜでしょうか。

隼:映画でも浪曲でも馴染み深い「番場の忠太郎」のような演題もありだったのかもしれま

せんが、そうじゃなくて、映画的なストーリー性のある感じで、昔ながらの時代から現代に

も通ずる演目を考えた時に「慶安太平記」にいきつきましたね。

―たしかに、あのストーリー展開はなかなか他の浪曲にはないもので、映画ファンの方も楽

しめそうですね。いい作品を選んでいただきありがとうございます。

隼:僕はこんないい作品を自分ができるということで、協会に台本を残してくださった二代

目の幸枝師匠にも感謝してます。

―浪曲界の財産ですね。

隼:そうです。誰がやってもいいんですけど、その代わり自分で脚色してやれって言われて

るんです。だから、自分なりの解釈ができるようにそこまで深く台本も書いてないんですよ。

これが 70 冊もある。ありがたいですよ。そして、これをできる場がある。それもありがた

いですよ。

3.2022年の目標は

―では、最後に2022年の目標をお聞きします。

隼:これを今日ずっと考えてたんですけど…。

―怪我から復帰もあったので、今年は年の区切りを感じにくかったかもしれませんが。

隼:いや、自分の中ではあって。今年の目標は「丁寧に生きてみる」。

―浪曲関連の言葉が出てくると思いきや、無印良品とか暮らしの手帖のような言葉が。

隼:そういう路線を狙ってるんで(笑)。

―浪曲に限らずにという話ですか。

隼:浪曲に限らずです。浪曲はもちろんですけど、掃除をマメにするとか、じっと物事を考

えて動いてみようかなと。そうすると案外、自分の知らないこととか今まで気づかなかった

ことに気づくんじゃないかと思ってまして。そう思ったのは、怪我をした時に、十字のスト

ラップ(ヘルプマーク)を付けてる人のことを考えるようになったんです。パッと見て分か

らなくても、大変さを抱えてる人がいるんだなと。だから、丁寧に暮らして周りを見渡そう

と。そうすると、見え方が変わったり、発見があったりするんじゃないかと心がけてます。

これを心がけただけで、随分心が落ち着いてるなと思ってますね。

―いいことですね。自分が内から変わるのは大切ですよね。

隼:また丁寧に生きると楽しいんですよ。

浪曲に関して言うと、今は何周も回って、また名人と言われた人の音源を聞きなおしてる

んです。虎造先生の祐天吉松とか。今回の入院中に浪曲について、自分の中で分かったこと

があるんですよ。これまでの疑問が 12 月くらいにいっきに解消されたわけです。これが合

ってるのかわからんけど、それを試そうとやってますね。

―分かった部分というのは具体的には。

隼:自分の型の作り方ですね。

―前回の通信でも話してた、浪曲の真髄を受け継ぎながら、いかに自分の個性を発揮してる

のかですね。

隼:そうです。それぞれ浪曲師がいかに型を作っていたのか。浪曲というのは型がありそう

で、その型は百人百色でそれがすごく難しいところなんですが。

―浪曲の普遍の部分と個性の部分それぞれを抽出することができるようになってるのです

かね。

隼:普遍もありました。その仮説の上で、虎造先生の音型を聞いてみたら、もしかしたら合

ってるのかもしれへんなと。そうやって改めて浪曲も丁寧に過去のも他人の聞く。そして、

色んな人の前でやって、いかに楽しんでもらうか丁寧に考える。僕の場合は大衆が師匠です

から。そうやって周りからも学んでいきたいと思ってますよ。

0コメント

  • 1000 / 1000

十三浪曲寄席:大阪・十三にて毎月開催中~浪曲で日常をもっとたのしく!~

毎月1回、十三のシアターセブンにて浪曲寄席を開催しています。