真山隼人 これまでの歩み その1 2020年1月号より

目次

1.少年時代の経験

2.入門のきっかけ

今月の十三浪曲寄席通信は隼人さんの「浪曲生活十周年企画」として、これまでの歩みを振り返ってもらいました。一月号に前半、三月号に後半を載せる予定でしたが、エピソードが多くて、今月号は入門するところで紙面が終わりました。隼人さんの引き出し多さに毎度驚かされます。結果的に今月号は浪曲の話が少ないのですがその分、人間・真山隼人の一面が見られるかなり面白い内容になっています。

1.少年時代の経験

―浪曲生活を振り返っていただきたいのですが、まず入門前のことからお聞きかせください。隼人さんは、子どもの頃は色んな習い事をされていたそうですね。

隼:これが嫌やったんですよ。

―嫌やったんですか!

隼:出だしから否定から入るという最悪のパターンですけど(笑)。これが嫌でしたねー。

―色んなことに興味を持っていたのかと思っていました。空手、英会話、スイミング、ソフトテニスなどやっていたそうですが。

隼:空手は元々ジャッキー・チェンにハマッて、あれは空手やと思って見に行ったんです。でも、あれは少林寺拳法なんですよ。空手ではないんですよ。

―そうですね(笑)。

隼:空手に行って、「わぁ楽しみ、酒飲んでブッーとかやる」と思ってたんですよ。それが行ってみたら、「礼。押忍。」ですよ。「えっ、アタッアタッタッとか小指でバケツ抱えるとかそういうのないんや!なんやこれは!」ってなり、自分がやりたいのは少林寺拳法ってわかった時にはもう空手着を買ってた。でも、引っ込み思案やったんでなかなか辞めたいって言えなかったんですよ。親としては最後までちゃんとやりきるっていうのを目標にして続けさせたかったみたいですけど、ぼくとしては途中で嫌になったんです。

―それで小学校の間は続けていたのですか。

隼:中学二年までやってました。

―長いですね。

隼:小学校二年で入って7~8年やりました。でも、今思ってみたら本当にいい加減でしたね。やる気なかったんで、ただ行ってるだけ。だんだん古株になっていって、終いには一番上になったわけですよ。下の子に黒帯いるんですけど、ぼくだけどこまでいっても茶帯。それから上がる気もなかった、辞めたくても辞めれなかった。これが空手の思い出ですね。

―それはなかなか辛いですね。英会話はどうでしたか。

隼:英会話はうちの母親が外国人と交流があったのがきっかけで、ぼくも小学校三年の時に母親と一カ月イギリスのアイルランドにホームステイをしてて。

―えっ、一カ月もイギリス行ってましたか。

隼:子どもの時ってすごいなって思うのは、外国人の家にぼく一人預けられて母親は友だちとどっか行くとかあるんですよ。ぼくだけ言葉通じない中、一日過ごしましたよ。それでも、一日経ったら何言ってるか大体わかるんですよ。

―すごい適応力や。

隼:今思ってもすごいなって思うんです。そんなこともあって、「英語はわりと得意です」と言ってる時期もあったくらい習ってたんです。けど、いつ頃からか、英語から落語になり、それが浪曲になってしまったんで。だから、今ホンマにわからないです。「ハイ」「ハロー」「シェイシェイ」。それは中国語か。

―一カ月も留学されてたのは驚きました。その時の経験で覚えてることや役立っていることはないですか。

隼:恵子姉さんがアイルランド巡業に行ったことがあるんですよ。その時に「お姉さん、アイルランドは芋しか出てきまへんで!ご飯食べたなるわ!」って話したんです。そしたら、数日後、夜中に恵子姉さんから「今アイルランドにいんねん。」って電話がかかってきて。時差があるから、こっちは真夜中ですよ!何の用事かと思ったら、「芋ばっかりや」っていう報告だけで、「なんやねん!笑」って思いましたよ。アイルランドに行って活かされたことはこのエピソードができたのと、恵子姉さんに事前に情報伝えられたくらいですね。

―(笑)

隼:あとはどんなとこ行っても怖くならないという耐性もついたかもしれないですね。

―それは子どもの時に経験できたからこそですね。スイミングはどうでしょうか。

隼:スイミングはうちが海辺の家なんで、海でちゃんと泳げるように的な感じで習わしてたみたいなんですけど、これは一才の時から小学校の頃まで。まぁ水泳は速いですよ。

―そうですか!

隼:泳ぐのは未だに自信あります。潜水でもやりますし、どんなんでもできます。泳ぎだけはいけます。

―中学時代はソフトテニス部に所属されてたそうですね。

隼:ぼくはホンマは三味線を習いたかったんですよ。でも、通ってた中学校が絶対に部活に入らないといけない中学で、仲良かった友達がこぞってソフトテニス部に入ったんですよ。だから、自分も入ったんですけど、入部後にわかったのが、顧問の先生が学校一厳しい先生で、これが大変なんですよ。

―どういうことですか。

隼:雪降って、雪でコートが見えなくなってるのに練習試合するんですよ。でも、あまりの寒さに休んでたんですよ。そしたら、そこに先生が来て「誰が休んでええ言うた!夜まで練習せい!」って言われて、夜まで練習させられるとか。夏休みとか土日は早朝練習が朝5:15からあるんです。

―はやっ!

隼:朝から市営コートでやるんです。起きるのは4:30ですよ。練習は8:30くらいに一段落つくんですけど、日によってはそっから学校で練習の時もあるんです。

―もう朝の練習だけで体力なくなってしまいそうですね。

隼:そうなると、夜の6時まで。ほぼ12時間練習。その時は我慢してましたね。

―でも、それだけ厳しかったら、選手として実力はついたのではないですか。

隼:つかなかったんですよ。元々テニス好きじゃないんで。ようテニスをサボって落語とか観に行ってましたからね。

―そうなんですね(笑)。部活に熱中するようなことはなかったのですね。

隼:熱中はしなかったです。でも、最後の一年に女子テニス部の子を好きになって、その子に認めてもらいたいから頑張りました。それまではずっと落ちこぼれで10ペア中、常に8番とか9番にいたのが、好きな女の子と話したいがために最後4番までいきました。

―すごい!青春ですね!

隼:あと、ソフトテニス部は精神的に鈍らなかった点でよかったかなと思ってます。

―小さい時から色々経験はされていたようですが、心はずっと演芸一筋だったようですね。

隼:そうですね。それしかないんじゃないですか。

―忍者になりたかったという話は。

隼:それは幼稚園かな。「忍たま」が好きで、いまだに毎日見てますよ。あれは落語からストーリーとったりしてるんで、やっぱ演芸に通ずる部分もあったんでしょうね。作者の尼子先生が忍者の心得を習得してるんで、下手な忍者の本読むより、忍たまの方が勉強になるんですよ。

※「忍たま乱太郎」…尼子騒兵衛原作の忍者アニメ。

―なるほど。

隼:ぼくの普段の知識の中でも忍たまから得たのがありますよ。

―そうなんですか。

隼:「そういえば、忍たまで言うてたな。呪い殺すにはこうやな!」とか。

―それ、どんな場面ですか(笑)。

隼:他にあるんですけど(笑)。マキビシの作り方とか。いまだにやっぱり忍者への憧れはありますね。

―すると、子どもの頃から演芸以外で続いてるのは忍者ですね。

2.入門のきっかけ

―入門する頃の話を聞かせてください。入門したいと思い始めたのはいつ頃ですか。

隼:いつぐらいでしょうね。中学校二年生くらいですかね。やりたいなという漠然的な思いはあったんですけど、公務員の家でもあったし、言うのも恥ずかしい。身内から芸人になったやつもいないし。言えないじゃないですか。だから、心の中だけで東京に行くか大阪に行くか。落語か浪曲かって考えてたんですよ。

―決心する前に、そうやって考えていた時期もあったのですね。

隼:演者にならず観るだけでも良いかなとか色々考えたんですけど。中学校二年生の時に、素人で落語やってたオジサンがいて、そのオジサンが末期ガンで死ぬ間際に独演会をやるということで、それに誘われたんですよ。そこでオジサンから「わしはカレー屋さんになってしもたけど、もしプロやるんやったら落語家でも紹介するから。プロになるんやったら頑張ってください」って言われて、連絡先を交換してもらったんですよ。でも、こっちも学校や部活、塾で忙しい時期やったんでなかなか電話もできず。独演会は12月やったんですけど、結局連絡したのが3月でした。その時に、

隼人「お元気ですか?」

オジサン「はい。」

隼人「また会いたいですね。」

オジサン「はい。」

隼人「また、よろしくお願いします。」

オジサン「はい。」

奥さん「お父さんね。具合悪いの。でも、よく電話してくれてありがとうね。お父さん喜んでるから。じゃあ、またかけてね」

ってやりとりをして、次の日に亡くなったんですよ。

―えっ。

隼:それを知って、これはなんとしでもプロでやりたいな。やらなアカンなって思ってる時に、真山広若の「俵星玄蕃」を聴いたわけですよ。

―ここであの「俵星玄蕃」を聴いてましたか。

隼:三味線の浪曲も良いもんだなと思ってたんですけど、聴いた時に「これ、すごいな」となったんです。三味線一丁でやってるのも素晴らしいのに、音でこんな浪曲をやってる。三波春夫先生も音でやってるけど、10分くらいじゃないですか。でも、30分の浪曲一席を音でやってるんだと知って、この人はすごいなと思って、それ以来あの全編オーケストラの浪曲の虜なりましたね。

―その頃に歌謡浪曲にも出会ってるのですね。

隼:初代真山一郎が三味線でやってるレコードは持ってたんですよ。「なんと良い声の人やろ。」って思ってたんですけど、その真山一郎と真山広若が師弟ということを知らなかったんですよ。

―そうでしたか。当時はまだインターネットで浪曲の情報も少なかったでしょうしね。

隼:インターネットにも出てこないですね。だから、初代真山一郎のレコードも昔のやし、もう死んでるやろって思ってたんですけど、入門したら、いたんですよ。「レコードの人や!」って感動しましたね。中学時代の話に戻ると、そこからNHKの浪曲十八番に真山広若さんをもう一回聴きたいってリクエストハガキを何枚も書いて。書いたのがよかったんでしょうか、普通は年に一回なんですけど、その年は真山広若の出演が二回あったんですよ。そう思えるくらいに手紙も書いてたし、あの浪曲が気になって仕方がない。あれがやりたくて仕方がないんですよ。それで、一念発起して、おれはここに入るんだって決めましたね。あの時は浪曲がやりたいという思いに加えて、あれがやりたくて仕方がなかったんですね。

―出会いや偶然が重なって入門を決めていたのですね。

隼:それで、さぁいつ入門しようと考えたんです。ぼくはあんまり賢くなかったんで、塾に毎日通ってやっと高校も受かったんですけど、本人としては浪曲がやりたくて仕方ないんですよ。だから、ぼくとしてはせっかく受かった高校だけど辞めてもよかったんですよ。そのつもりで親にはファンレターと騙して入門願を書いて、そしたらそれに返事が返ってきたという話です。

―お母さんにはファンレターって偽って入門願を書いたというエピソードは新聞でも読みました(笑)。受験勉強しながらも、浪曲界に入ることを決めてたのですね。

隼:そうですね。もう浪曲のことしか頭になかったですね。

―入門する頃にはもう数席覚えてたんですもんね。

隼:そうですね。五本くらいですかね。

―その年齢で自分の将来を決めて、行動に移せるのはやはりすごい覚悟です。

隼:男は15になったら何かせなアカン。だって、大石主税だって、腹切ったんは16ですから。

―比較対象が大石主税の中学生いないですからね(笑)。

隼:(笑)。そういう思いがあって、ぼくは入門したんですけど、親はびっくりしてましたね。

―そうだったんですか。あまり反対はなかったと聞きましたが。

隼:反対というより、ほぼ騙して弟子入りして、親も何が何やらわからないまま強引に行っちゃったので反対のしようもなかったんでしょうね。

―もう規制事実作ってたんですね。


さて、これから入門して浪曲師の生活が始まるのですが今月はここまで。次回をお楽しみに。

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