真山隼人 創作活動について語る 2019年5月号より

 今回のインタビューでは3月31日の十三浪曲寄席EXTRAで口演した新作浪曲「また逢う日まで」の創作秘話などを聞いています。「また逢う日まで」は浪曲師と曲師の時空を超えた絆を描いた作品で、3月に発表して以来、ツイッターなどで感動したという声が続出。今話題の作品になっています。まだ、観ていない方は是非機会を見つけて観に行ってください。また、このインタビューを通じて、もっと真山隼人の浪曲を観たい、そんな風に思っていただけましたら幸いです。

目次

1.「また逢う日まで」創作裏話

2.作家・内田大夢!?

3.京山幸太との「華の二人会」を終えて

4.「あゝヒロシマ」の口演に向けた想い

5.令和を迎えて



1.「また逢う日まで」創作裏話

―3月は通常公演、EXTRA公演と2回もご出演いただき、ありがとうございました。EXTRA公演では新作浪曲「また逢う日まで」が大阪で初口演されました。アンケートでも非常に好評でしたが、ご自身の実感はいかがでしょうか。

隼:あれは本当にいいのができましたね。自分で書いて、自分で言うたら駄目ですけど。作家としてはプロではないので、ここは天狗にならせてください。あれはいい台本ですよ(笑)。

―浪曲師目線から見ていい台本なんでしょうね。いいと思えるポイントはどこですか。

隼:浪曲ならではの世界を描けていることですね。浪曲の世界には上手な曲師が若手の浪曲師を支え、上手な浪曲師が若手の曲師を支える。こういう関係性があるんですよ。こういう感じで浪曲師と曲師が互いに引っ張り、引っ張られて浪曲界は続いてきてるんです。こういう独特の関係やからこその因縁みたいなものもあって、それが表現できてるのがいいですね。

―台本を書くきっかけは何だったのでしょうか。

隼:一番最初のきっかけはさくら姉さんと飲んだ帰りに、(「また逢う日まで」の内容と同じように)銭湯行ってサウナ入ろうと思ったんですよ。でも、その時ベロベロやったんで、このままサウナ行ったら死ぬからやめとこって思いとどまったんです。それで家帰って風呂入ってる時にこのアイデアが思いつきました。その時に構成まではできたんですけど、実はそれはけっこう前の話なんです。

―確かに今年の1月頃に構成は聞いていました。

隼:そうなんです。実際10月くらいには思い付いてたのですが、ほったらかしになってたんです。それが、今年の3月に東京の港家小ゆきさんがやってる日常をテーマにした浪曲の会に呼ばれて、それを機に完成させましたね。あれは一般的な日常かと言うと、そうではないかもしれないんですけど、浪曲師の日常という意味ではいいであろうと思って。

―なるほど、構想から書くまでけっこう時間があったのですね。

隼:そうです。日常浪曲の会が決まってからも書く暇がなくて、東京に行く前日にさくら姉さんに 「今晩は絶対書かなアカンで!」って言われて必死になって書いたんです。それでいざ書き出したら、昔の巡業をやってた頃の浪曲界を想像したり、過去の色んな師匠の姿を思い浮かべたりして、ホロっときたりしてました。

―あの作品は過去の浪曲師のエピソードや人柄にも影響を受けていると思いますが、特に影響を受けたと思うエピソードや人物はいますか。

隼:まずは自分自身の経験ですね。去年は精神的にもしんどい時期があったけど、さくら姉さんのおかげで生きなアカンと思って頑張ることができたこと。また、僕は藤信のお師匠さん(曲師・藤信初子1918~2017)と一緒にやりかけたけど、諸事情でできなかった。その悔しさもあります。なので、さくら姉さんや藤信のお師匠さん、それに先代(初代・真山一郎)の相三味線やった東家菊枝師匠のことにも影響されてます。それと五月一朗先生と相三味線の加藤歌恵師匠の関係も影響してますね。

―五月先生と加藤歌恵師匠の関係とはどのような関係ですか。

隼:五月先生は90歳を超えても舞台に立っておられたのですが、歌恵師匠も相三味線として同じように舞台に立ってはったんですね。それが、晩年になって二人結婚したんですよ。だから、歌恵師匠は晩年、五月歌恵として曲師を務めてるんですよ。これすごくないですか。

―すごいですね。色々深い話がありそうです。

隼:それで歌恵師匠が亡くなった数カ月後に五月先生も亡くなられるんですよ。こういう話が結構影響してますね。そういうことにも思いを巡らせながら、書きましたね。浪曲界のあるあるを黄金期から現代まで拾い上げて、生々しく言わないけど浪曲界の内情みたいな感じを言いたかったんです。一門ではなく、人間の情で代々伝わっていくということが表現できているのが気に入ってます。

―私も聞く立場として、隼人さんがこういうことを伝えたいのかなとか想像することがありますね。ちなみに、最初の節の言葉がとても詩的な文章で印象に残りました。あのような言葉はどこから発想されているのでしょうか。

隼:「人のさだめというものは、夕映え空の茜雲、どこで散るやら果てるやら」という部分ですね。あれは別の台本やったり、思いついて書いたりとか。出典はちゃんと覚えてないですけど、論文やったら弾かれて返却されるやつですね。

2.作家・内田大夢!?

隼:台本全体的な話をすると、あれは僕が今後やりたい浪曲の型としてぴったりやなと思ってます。

―ぴったりというと。

隼:藤山寛美先生のような浪曲をしたいと思ってるんですよ。

―笑いもあるけど、人情やホロっとさせる場面もあるような浪曲ですか。まさに「また逢う日まで」はそういう要素がありますね。

隼:んー。あれは台本がいいので(笑)。

―今後は内田隼人(本名)で台本作家も始めたらいいのではないですか。初代京山幸枝若師匠も本名で台本書いてましたよね。

隼:そうそう、僕も令和になったんで、ペンネームを作ったんですよ。内田大夢(ウチダヒロム)です。

―大夢!大夢はどこからきたんですか。

隼:大也君っていう兄弟分みたいに仲の良い友達がいるんです。それで大の字を入れようと思いました。それと、もともと夢という字は入れたかったんですよ。

―なるほど。夢はどういう理由ですか。

隼:天竜三郎師匠が坂口三夢というペンネームやったんです。そこに憧れもあって、夢という字を入れました。そしてできあがったのが、内田大夢。良い名前ができたなあと思ってて、実はぼくが今一番気に入ってるものはペンネームやったりします。早く文楽劇場のパンフレットに載せたいですね。

―活動の幅が本当に広がってますね。令和になって、最初の勉強会でも新作のネタ卸しをされたそうですし。

隼:「令和17年」というネタをやりました。

―繫昌亭の昼席でも掛けれそうな面白いネタだと聞いています。年始のインタビューでは今年はあまり書かないと言ってましたが、実際にはペンネームまで作ってめっちゃ書いてますね。今後も内田大夢の活躍にも期待しています。

隼:はい、今度8月10日は作家・内田大夢として行かせていただきます。

―いや、そこは浪曲師・真山隼人として来てください(笑)。

※16日夜、真山隼人から電話があり「あの、ペンネームの件なんですが・・・。実はあの後、さくら姉さんと話して、体型をネタにして内田八夢(ハム)になりました。」と。(マジか⁉)何はともあれ、皆様!内田八夢先生をよろしくお願いいたします!

3.京山幸太との「華の二人会」を終えて

―4月20日に開催された幸太さんとの「華の二人会」のことを聞かせてください。企画コーナーの台本コンクールでは事前に台本を募集していましたが、沢山の応募があったみたいですね。

隼:そうですね。けっこう沢山来ましたね。

―中には泣く泣く落選にした作品もありましたか。

隼:ありますね。常連のお客さんの方が応募してくださってて、それが「また逢う日まで」結構そっくりな話なんですよ。

―えっー!そんなことありますか!

隼:同じ時期に同じような台本を書いてたんです。もし僕が書いてなかったら、それを採用したかもしれないです。常連の方も「よく似てる作品でびっくりしました」とおっしゃるくらい、本当にたまたま似てて、これは泣く泣く落としましたね。

―すごいですね。よく見ているだけあって、視点が鋭いんですかね。

隼:その方はお話ししてても、ぼそっと的を得たこと言いはりますからね。

―では、たくさんの応募の中から「西城秀樹物語」を選んだ理由は何だったのですか。

隼:最後に宙乗りして、お父さんと再会するシーンがあって。それが決め手でしたね。これぞまさに浪曲っていうシーンになっていたので。それでお客さんの心に残るようにしたいと思って、「(衣装の)早変わり」を思いつきました。だから、当日の朝、おそらく幸太くんがネタを繰っている頃に、ぼくは一人で早変わりの猛稽古してたんですよ。

―早変わりは隼人さんのアレンジでしたか。あれはとても印象に残る演出でした。

隼:早変わりした後の着物も真山家らしいじゃないですか。でも、あのキラキラの着物があんなところで役立つとは思わなかったですね。

4.「あゝヒロシマ」の口演に向けた想い

―6月に東京で開催される「令和に平和を願う平和寄席」では歌謡浪曲の「あゝヒロシマ」を口演されるとお聞きしました。今この演目をする経緯やお気持ちを教えてください。

隼:この演目は弟子入りして初めて一心寺の楽屋に入った時に二代目(当時:真山広若)がやってて、こんな話があるんだとびっくりしたんですよ。それで、見習いやけどボロボロ泣いたんです。それくらいこの話を聴いた時は衝撃的だったんですよ。だから、やりたい気持ちはずっとあったんです。けど、できないままできてて、今年の3月くらいに急に「今やな!」と思ったんですよ。

―なるほど。話はどんな内容ですか。

隼:「はだしのゲン」 の作者・中沢啓治さんが「ある日突然に」というタイトルで漫画にしているんですよ。それをうちの先代か誰かがやりたいって言って45年くらい前に浪曲になりました。原爆を受けた夫婦がいて、奥さんがなくなってしまう。息子と父親の二人暮らしになって、 息子も白血病と言うことが分かってしまうという話なんです。 この話は実際に市民の心がどれだけ苦しかったかが伝えられていて、理屈抜きで平和とは何かを訴える力があると最近思うようになったんですよね。

―今やりたいという気持ちが沸いたのは、その訴えたいという気持ちが高まったことも影響しているのですかね。

隼:ぼくの中で今まで思想はタブーやったんですけど、生々しく訴えるのではなく、平和というものはいいもんなんですよと、それを訴えたい。それを訴えるために自分には良い財産があるやろと、ふと思ったんですね。今どこまでウケるかは分からない。けど、やりたいんです。

―入門した時に受けた衝撃がずっと残っていて、そこに別の熱い気持ちも加わったのですね。台本は先代の真山一郎先生の音源などを参考にされているのですか。

隼:そうですね。先代の音源を聴いていると興味深くて、45年くらい前の音源では白血病の息子に気持ちが入ってて、まだ生きたいという気持ちが強く訴えられてるんですよ。それが10年20年後の音源を聴くと、だんだんそっちがマイルドになって、親の気持ちの方が強く出てくるんです。

―その時の自分の立場や環境によって視点も変わってくるのですね。それでも、訴えたいという気持ちはどちらも強いんでしょうね。隼人さんなら、それをどういう視点で訴えるのかも気になります。(右の公演は6月23日(日)13時~広小路亭「令和に平和を願う平和寄席」)

5.令和を迎えて

―最後に、令和という時代を迎えて、隼人さんなりの浪曲界がどうなっていくのか展望と、どうしていきたいかを教えていただきたいです。

隼:浪曲界だけの話をすると根回しが上手くて、長いものに巻かれる人間が出世していくと思うんですよ。でも、浪曲界以外でも活動している浪曲師はいかに行動するかが重要で、努力したもん勝ちの世界やと思っています。そのうえで僕が物申したいのは、今の時代売れたら「崩壊しつつある浪曲界を守ってる」というレッテルが貼られがちなんですけど、そういう風潮を止めたいですね。そんな人は一人もいないんですよ。みんな己のために頑張ってる。ぼくもそのように評価をしていただくこともあるんですけど、そういう風になっていくのは本意ではないんです。浪曲界を守るという小さいくくりに留まるのではなく、いろんなジャンルの人と付き合って対等に向き合っていかないといけないと思うんです。最近になってありがたいと思うことは、自分より下の浪曲師が入ってきてることですね。彼らが浪曲というのがいかに個人芸なのか、自分の見せ方を見つけ出せるかがポイントになると思います。だからある意味では戦国時代です。風前の灯やったところに、少し火付いて戦国時代になったと思います。それを勝ち取るためには、一門にこだわるわけでもなく、名前にこだわるわけでもなく、みんなが初代~を目指す時代にならなアカンと思いますね。

―隼人さんは浪曲界にとどまらず演芸界や芸能界で成長していくことや存在感を増していくことを考えてる感じです。

隼:そうですね。過去の師匠方は他の世界の人たちとの付き合って吸収して、浪曲自体を大きくしてきたんですから。自分が浪曲師として生活できていることを見せることで、新しい人にももっと入ってもらい、さくら姉さんが曲師の後継者も育てていき、浪曲界自体が盛り上がっていくのが、令和にできたらいいですね。

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