真山隼人 初の大阪独演会を終えて 2018年11月号より

今月8日国立文楽劇場で真山隼人にとって初めての大阪での独演会が開催された。文化庁芸術祭にも参加したこの公演は「創作」「発掘「継承」の3つのテーマが掲げられ、それぞれのテーマに沿った演目が口演された。9年目を迎えた彼にとって集大成とも言えた今回の公演を終えて、何を思うのか、その心中を聞いた。

目次
1.独演会を終えて
2.創作「ビデオ屋の暖簾」について
3.発掘「善悪双葉の松」について
4.継承「円山応挙の幽霊図」について

1.国立文楽劇場での独演会を終えて

―まず、独演会終わって今のお気持ちは。
隼:ほっとしたのと、まだ独演会のこと言うてるって思われるかもしれないけど、もうちょっと余韻に浸らしてほしい。
―どういった余韻?
隼:良かった余韻、楽しかった余韻。
―やり切ったという気持ち?
隼:不思議と充実感はないんです。やっと終わったという気しかないんです。
―解放されたような?
隼:プレッシャーからの解放。でも、やっとプレッシャーから逃れたと思ったら、また新たなプレッシャーが…
―このタイミングでの独演会開催になった事はどう思う?
隼:良かったと思いますよ。繁昌亭って10年未満の人は借りられないじゃないですか、一応それにあわせようと思てたんですけど、2年前に「芸祭で独演会やってみたら?」ってある人に言われまして、次の年やろうと思ってけど、結局できなくて、その年は太福兄さんが賞を取はったんです。それで、こうなったら僕も浪曲師として、兄さんに続きたい、そういう思いになりましたね。最初に言うてくれた人がいて、よしやるんだって気持ちになって、最後に背中を押してくれたのはやはり太福兄さんですね。ほんで、さくら姉さんとも、来年はやるぞって二人で盛り上がってましたね。

2.「ビデオ屋の暖簾」

―それではネタに関して、お話を伺いたいと思います。まず「創作」の「ビデオ屋の暖簾」に関して。自作のネタは他にもありますが、その中からあのネタを選んだ理由は?
隼:ぼくを助けてくれたのはあのネタでしたから。
―助けてくれたとは。
隼:あのネタを上方演芸特選会でやったんですよ。やった時に袖にいた噺家さんたちが感動してくれはって、「おれの会出てくれるか?」って言うてくれはって。元々、落語家さんと全然縁なんかなかったのに、そこに縁を作ってくれたのが、特選会でやった「ビデオ屋の暖簾」。
―落語家さんと会をやるようになったのも、そんなきっかけがあったんですか。
隼:あと、もう1つ言うと、さくら姉さんが国本武春師匠が亡くなった時にだいぶ落ち込んでたんですよ。曲師の親子会に出てもらう前に亡くなってしまって。
その頃にぼくが三味線の浪曲を始めて、こうなったら、この人を元気付けるのはぼくの役目やっていう気持ちが強くあって。「頑張りましょうね」じゃない何か励まし方があるやろって思ってて…。「そうや!新しい浪曲を作って、あんなことやりたい、こんな事やりたいってぶつけたら絶対楽しんでもらえる」と思って、一心不乱に書き上げたのがあの「ビデオ屋の暖簾」なんです。
―そんな裏話があったんですか。
隼:あんなしょうもないネタですけどね(笑)
―実は感動的な話ですね。
隼:それで書き上げて、さくら姉さんも徐々に元気になってくだすって、ほんでぼくは噺家さんとも縁ができて、今のぼくを作ってくれた大事な要が「ビデオ屋の暖簾」なんですよ。だから、自分で書いた作品ですけど、ぼくは感謝をしなければならない。
―そんな思いで選んでましたか。
隼:真山一郎に「松の廊下」があるように、今の真山隼人にとって「ビデオ屋の暖簾」がある。それくらい重要といえば重要な作品です。でも、いずれ封印しようと思ってます。
―えっ、なんでですか?
隼:旧作にしたくない、ぼくは新物のネタをやりたいと思ってる。昔のネタで「昭和20年の~~の」って昭和20年の話が古臭くなってんのに気がつかんと未だにやっている人いるじゃないですか。そうじゃない、新しい時に、華のある時に、そのネタを終わらせる、それも浪曲の醍醐味やなと思ってて、いずれ近いうちにこの演目は封印しようかと、ぼくはそう思ってます。
―「ビデオ屋」を封印する基準っていうのは、隼人さんの年齢やキャラとかも関係している?
隼:それもあります。あと、アメリカってビデオの貸し出し業務を止めたんですよ。今はエロビデオってオンデマンドじゃないですか。「ビデオ屋」も平成17年頃のくらいの話で、今の話ではない。そうなると、もうちょっとしたら元号も変わるし、今もうビデオ屋がない、DVD屋も減ってきてるとなったら、やっぱり「あっ古なった」って思う時期が近い将来来ると思うんですよ。5年、10年の間に。ほんで、古なった思たら、ぼくはネタをありがとう…します。
―本当に世相を見ながら、リアルタイムにネタを考えてるんですね。
隼:そういう意味では「うんこ」ってネタは一生使えますよ。
―人間の不変ですもんね。
隼:不変です。生理現象の決定版です(笑)。

3.「善悪双葉の松」

―では、次は「善悪双葉の松」に関して。あれも沢山ある発掘したネタの中から選んでますが、あのネタに決めた理由は。
隼:「柳田格之進」とか色んなネタあったんですよ。今は誰もやってないネタもいっぱいあって。その中で「双葉の松」をやろうと思ったのは、先代の真山一郎先生に「昔、三味線で何の演目をやってたんですか?」って聞いた事があって、その時に「やっぱり一番おうてたのは善悪双葉の松やなあ」って言われてまして。それを16か17歳くらいの時に聞いてて、今回出てきたのが華井新の「善悪双葉の松」。「あっ、先生やってたのこれか!」と思って内容を見る前に今回これをやるって決めました。
―なるほど、16歳ごろの思い出があって、このネタを選んでたのですね。
隼:でもまた、あの台本は本当に大変でした。GHQに提出した台本なんで、外人が相手やと思って「てにをは」をテキトーに書いてるんです。なんで、初めと最後で全く別の話なってるんですよ。矛盾しまくり。今、この倫理感でやったら絶対に受けないっていう部分もあって。全部台本解体して、この部分は生かす、こっちは自分で演出する、最後はこう組み合わせたら原作のストーリーに合う、でも原作の最後の節はアカンから入れ替える、とか考えてて、本当に寝ずに台本の洗い直し。もうパズルみたいなもんでしたよ。それで勉強会前にやっとできて、ホンマに勉強になりました。
―発掘という作業が素人の私には想像しにくかったのですが、そんな作業をしてましたか。ここは節とかわかるように書いてるんですか。
隼:〽マークみたいなのがあって、ここから節で、ここから啖呵っていのはわかるんですけど、どの節を使ったかってたかまではわかんないです。だから、とりあえず台本書き上げて、一席読んで、それじゃあ、ここはああいう節にしよう、こういう節にしよう本解体して、この部分は生かす、こっちは自分で演出する、最後はこう組み合わせたら原作のストーリーに合う、でも原作の最後の節はアカンから入れ替える、とか考えてて、本当に寝ずに台本の洗い直し。もうパズルみたいなもんでしたよ。それで勉強会前にやっとできて、ホンマに勉強になりました。
―もはやストーリーだけあって、ほぼ1から作りなおすみたいな感じですね。
隼:1からです。なんで、華井新とも真山一郎とも違う。でもちゃんと受け継いだ新たな「善悪双葉の松」です。
それで、これは鳥肌たったんですけど、実は独演会後に華井新の台本で「双葉の松」やってる人のテープが出てきたんですよ。それ聴いたらぼくが節付けしたんとほぼその通り!ああ浪曲やってよかったって思いましたね。
―それはすごい…
隼:あと、嬉しかったんは、「双葉の松」を聴いてくれはったある師匠が「久しぶりに浪花節らしい浪曲を聴いた」ってめっちゃ褒めてくださって。浪曲って自分で節作るのが本質なんですよ。やっぱり本質を知ってる人に褒められたんで、すごくうれしかったですね。これが浪曲の本質やっていう。
―台本が出てきたと聞いていたので、てっきり台本通りに浪曲ができるのかと思ってましたがそうではないのですね。「双葉の松」は独演会の1カ月くらい前に勉強会でネタ卸しをして、その後、阿倍野でも口演されましたが、ちょっとずつ改良はされてましたか。
隼:改良はしました。独演会でも改良して、今回独演会でもやって、今のぼくが100パーセント満足する形が見つかりました。こないだはそれを出し切れなかったですけど。

4.「円山応挙の幽霊図」

―最後は「円山応挙」に関して。あれは本編も良かったですが、マクラも印象に残りました。涙を流されてて言葉に詰まる場面もありましたが、何をお話するつもりでしたか。
隼:ぼくが何を言いたかったかというと、さくら姉さんは大阪に来た時にツテが無いから、親友協会に入れなかった期間が2年くらいあるんですよ。それでやっと、親友協会に入って初めて弾いたのが、松浦四郎若師匠の「円山応挙」やったんです。ほんでその後、四郎若師匠、小圓嬢師匠と弾くようになりはって、そして今ぼくのも弾いてくれてるんですよ。それがもう、涙ばっかりでてきて、時間見たらもうヤバイってなって。一番言いたかった事が言えなかったんです。
―さくらさんの話をするつもりでしたか。
隼:そう。さくら姉さんがなかなか弾けなかった末にやっと弾けたのが「円山応挙」。一方でぼくも三味線浪曲を始めるきっかけになったのは、四郎若師匠の「円山応挙」を観た事。別々のところで二人にとって思い出のあるネタ。それを言いたかったんですけど、色々思い出して…。
―感極まってましたね。応挙は今回やってみてどうでしたか。創作されたネタや発掘されたネタよりもある意味完成されたネタという印象も受けました。
隼:台本は四郎若師匠が8割完成させてくれたのを、ぼくはそれをなぞってやってる。変えた部分もありますが。
―観客の立場からすると、すごい完成度は高いと思いました。
隼:高いです。僕だけが台本見てたら、完成してないんですけど、四郎若師匠が8割完成させてくれて、ぼくがなぞってる。でも浪曲の本質としては、ぼくはまだこんなんじゃダメやと思うんですよ。
―本質というと、先ほどもおっしゃっていた。
隼:やっぱり自分自身の円山応挙がまだできてない。そういう意味で悔しい、残念や、そればっかりですよ。最近、京山小圓嬢師匠に「稲荷丸」いただいて、やってるんですけど、それもまだ小圓嬢師匠の真似ですよ。あるところまでは真似をしていくというのも大事なんですけど。応挙もそうで、これから一皮も二皮も剝けるネタやと思ってます
―そう言われると、今後聴いていくのがより楽しみです。現状でも良い部分はあったかと思ったのですが。
隼:それは、だいぶやったのと、あと神田松之丞兄さんと二人会でやったんですよ。あれで、変わったんです。それまでは、四郎若師匠のネタやりますって感じやったんですけど、めっちゃ売れてた松之丞兄さんとの会で、なんとか食らいつきたいって思いで一心不乱にやったのが良かった。みんなボロボロ泣いてくれたんです。なので、あの応挙はすべてを忘れて一心不乱に打ち込んだ応挙ですね。それは松之丞兄さんのパワーと会の空気のおかげでした。
―そんなきっかけがありましたか。色々とお話をありがとうございます。後は芸祭の発表を待つのみですね。
隼:そう、あとは発表を待つのみ。
―あと、今年の大きなイベントはNHK東西浪曲大会があります。意気込みを教えてください。皆様の手元にこのインタビューが届くのは大会に翌日になりますが。
隼:ここ数年で一番泣いたのは決まった日ですね。噂は聴いてたんですけど、企画コーナーかなとも思ってて、それが、担当の人から電話かかってきて「今年は一席でいいですか」って言われました。決まった時に思ったのが、23歳で浪曲一席できるって40数年の東西浪曲大会の歴史で最年少なんですよ。そしたら、二葉先生とかもちろん先代とか、四郎若師匠とか国十郎先生の顔が浮かんできて、そんな人らが切磋琢磨してたところへ名前を刻ましていただくっていうのは、嬉しくて。
―浪曲界にとって最高峰の舞台ですもんね。
隼:ぼくが何に一番出たかったかっていうと、あれに出たかったんです。あれに出たいがために浪曲界に入って、頑張ってやってきた。しかも、いきなり全国放送に抜擢してくださった。ありがたかったですねホンマに皆さんに応援していただいて、ぼくは幸せですね。まだまだ、全然恩返しできてない。
―いやいや、ぼくも含めて皆さん、隼人さんの活躍してるのを観るのが楽しみで応援してます。これからも頑張ってください。

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