真山隼人 これまでの歩み その2 2020年3月号より

高校の入学祝いとして、大阪の浪曲会へ連れて行ってもらえることになった隼人少年。母親からの勧めでファンレターを書くが、その内容は入門願だった。ご両親に相談することもなく出したその"入門願"は真山広若師匠に手渡されて…。そんなところから、話は始まります。

目次

1.入門からデビューへ

2.気になる高校生活は

3.入門からの5年間

1.入門の頃の話

―高校受験しながらも心の中で浪曲師に入門することを決めていたのですね。

隼:そうですね。浪曲のことしか頭になかったですね。

―入門するのは真山広若・師匠とまで決めていましたか。

隼:そうですね。一番弟子やし。

―入門する頃には既に数席覚えてたと聞きましたが。

隼:ラジオでやってて、覚えてるのが幾つかありましたね。

―入門を前提に覚えていたわけですよね。中学三年の時に将来のことを考えてることがすごいです。私が中学の時は高校に入ることしか頭になかったですよ。

隼:男は十五になったら何かせなアカン。だって、大石主税だって腹切ったんは16ですから。

―大石主税と自分を比較する中学生いないですよ(笑)。

隼:だから、何かせなアカンという気持ちもあって入門したんですけど、親はびっくりしてましたね。

―あまり反対されなかったと聞きましたが実際はどうだったのでしょう。

隼:反対というより、ほぼ騙して弟子入りしたみたいなところがあるんで。親も何が何だか分からないまま、強引にいったので反対しなかったんでしょうね。

―既成事実作ってから報告したようなものですか。入門はあっさりとできたのですか。

隼:ぼくは高校辞めるつもりやったんですけど、師匠からさすがに今のご時世で高校は辞めんといてくれと言われて、高校出るつもりなら修行してもいいと、そういう条件で入門しました。けど、周りには「どうせ高校生やろ」「素人やろ」という人もいましたね。

―それはお客さんからの声ですか。

隼:いやいや、業界の中です。それで、ぼくは絶対に大阪に住んでる人と同じように三重から通うと決めたんです。だから通うの大変でしたよ。片道三時間くらいかかるんですよ。でも、その間テープを聴きながら行ってたんで、その時間に色んなことを覚えましたね。真山の浪曲だけでなく、色んな浪曲を覚えました。

―入門してからデビューするまで一年半くらいあるんですよね。

隼:今いる若い人の中ではたぶん時間かかった方なんですよ。ぼくの時はまだ呑気やったんでしょうね。それと、初めに(師匠から)「お前はまだまだ時間あるんやから、見習い3年」って言われたんですよ。すごくないですか。

―長いですね。

隼:今思えばもう発狂レベルですよ。3年経ってデビューしてたら、京山幸太とほぼ同期デビューですよ。そう考えたらけっこう長いなと思うんですけど。ただ、デビューの前にも老人ホームとかではやらしてもらってました。だから、デビューは一心寺ですが、初舞台は15歳の時にやってます。

―なるほど。デビューまでに舞台に立ってたのですね。それなら、デビューの時に特別感慨深いものはなかったですか。

隼:いや、感慨深かったですね。

ぼくが入ってすぐ、初代・真山一郎が引退、二代目襲名とけっこうバタバタしてたわけですよ。その時にぼくは15歳で、常識も何も知らなくて、色んなこと習うんですけどアホやからできないんですよ。それで、だんだん怒られるようになって、厳しいことも言われてたんです。「お前は見込みないからやめ」って言われて、泣きながら家に謝りに行ったりもしました。

―中学卒業したばかりで、それは辛いですね。

隼:やっぱり嫌になったんですよ。デビューの日は未定で、手伝いに行っても怒られる。何してんのやろってフッと気が抜けた時があったんですよ。それで「お前やる気ないやろ。やる気ないなら来ていらん!」ってこともありました。

―その時のことは隼人さんも今でも覚えてるくらいに印象に残ってますか。

隼:一回印象に残ってるのがありますね。ぼくも本当に無気力やったんで、あれは言われても仕方ないです。もし自分が弟子取って、こんなやつ来たら、「辞め」って言ってるやろなって思うくらい、あの時はアカンかったってたまに思い出しますね。

―デビューも決まらないまま、怒られることも多くて、目標を見失いそうですね。そんな中で決まったデビューは嬉しかったでしょうね。

隼:あの日は嬉しかったですね。とうとう協会の浪曲会に出られるのか!こんなに嬉しいことはない!そんな気持ちでした。

―舞台は緊張されましたか。

隼:開きなおってましたね。一年半も同じネタしかやってこなかったから、覚えてることを一生懸命やりました。

―一心寺の三日間とも「俵星玄蕃」をされたんですか。

隼:もう一席は「日本の妻」です。

―「日本の母」は聞いたことありますが、「日本の妻」ですか。

隼:これは新野新先生の台本で、インドネシアの独立戦争に巻き込まれて帰れなかった旦那さんが現地で結婚して子どもも作るんですけど、そんなことは知らずに日本の家族は旦那さんが生きているのか死んでいるのかもわからず待ち続けているんです。旦那さんが帰ってきた時には現地に奥さんも子どももある。それで日本の妻は気丈に耐えるという話です。

―深いですね。それを高校生がやるには難しそう。

隼:良い話なんですけど、まぁ。師匠の初舞台のネタなんで、これはお前もやってくれということで、これをしましたね。

2.気になる高校生活は

―少し浪曲から離れて、当時の高校生活について聞かせてください。私が個人的に好きな話があって、読売テレビの世界仰天ニュースに隼人さんが出演して、学校中の話題になった話なのですが。

隼:話題なりましたね。あの仰天ニュースの時に高校の制服を着て出演するんですよ。田舎者臭かったですよ。そら珍しいですよ。このご時世で16歳で浪曲やってるヤツいてないですからね。その時に中居(正広)さんから"工場長"というあだ名をいただいて。

―工場長!?なんで工場長ですか。

隼:なんか工場長みたいやったんで。

―それくらいの風格が備わっていたのですね。

隼:「田舎者の工場長みたいや、工場長どうも!」そのやり取りが中居さんとあって、学校で一年くらいあだ名は工場長でしたね。

―さすがにテレビの影響力ですね。

隼:そうですね。仰天ニュースに出た次の日、学校に行くわけですよ。凄かったですよー。今みたいなスマホ文化もないから、みんなテレビ見てるんですよ。学校行くだけで、祭り上げられる!乃木神社みたいなもんですよ!

生徒「昨日見ました!工場長!」

隼人「ありがうとう!」

って一種のスターですよ。

学校着いてからも

生徒「一節やってください」

隼人「それはダメだ」

とかそんなこと言ったりして。

他の学年の人もぼくを見に来て。「押すな押すな」「中居くんどうやった!?鶴瓶さんどうやった!?」みたいな感じで。あんなに盛り上がると思わなかった。田舎ってすごいですね。

―生徒全員が見てますもんね。

隼:放送の二週間くらい前に学校で5人くらいにポロッと喋ったんです。そしたら、チェーンメールで「◯年◯組の内田くんが仰天ニュースに出ます」というのが全校に配信されたみたいで、ほぼ全員が観たみたいですね。

―スター感が堪らないですね。この話はいつ聞いても面白いです。「仰天ニュース」程ではなくても当時取材は多かったのですよね。

隼:(国本)はる乃ちゃんが入るまで全国最年少浪曲師だったんで、やっぱり物珍しかったんでしょうね。一番すごい時で毎週二件取材受けてました。

―新聞とかですか。

隼:新聞だけじゃないですね。雑誌とかも。これまで何の縁もなかった「月刊名古屋」とかもありました。

―評判を知って、あらゆるところから取材がくるのですね。

隼:塾とかもありましたよ。あと、ティーン向けの女性誌も取材きましたし。

―すごいな。

隼:パソコン開いたら取材のお願いがあるくらい、すごい取り上げれ方でしたよ。だから、お稽古も学校もない日は取材に当ててましたし、学校帰りに取材受けることもありました。ラジオもいっぱい出ましたよ。地元のも名古屋の局も。

―本当にスターみたいなスケジュールだったんですね。

隼:子役みたいなもんですよ。大して知名度はなかったんですけど、取り上げられ方はすごかったんです。でも、ぼくは早く"最年少"という枠から外れたかったですね。ぼくは純粋に浪曲がやりたかったんですよ。

―そうなのですね。すると、メディアに出て浮かれることはなかったですか。

隼:浪曲に関しては浮かれないように保ってました。でも学校行ったら、天狗でしたね。学校は誰も見にこないんで、偉そうにした時期もありましたね(笑)。

―仰天ニュースも出てますからね。

隼:あれで天狗にならないのがおかしいですよ!ただ、天狗になるのは学校だけ。そういう風に決めてました。

―そんな特殊な高校生活を送るなかで、普通の高校生活に憧れることはなかったですか。

隼:ないですね。

―放課後に遊びに行くとかもなく。

隼:あっ!でもけっこう行ってましたね。駅前のマクドナルドでたむろしたり。

―カラオケ行けば、めちゃくちゃ上手いし人気者だったのでは。

隼:いや、カラオケには呼ばれないんですよ。初めのうちは面白がって呼ばれるんですけど、演歌しか歌わへんからだんだん嫌になってきたんでしょうね。

「仏間に入りて、灯明~の~」雲月師匠のモノマネをするわけですよ。でも、本家がわからないからウケないという…。瓢右衛門師匠が「君が代」歌ったらとか。

―知ってたらウケるんでしょうけどね(笑)。

3.入門からの5年間

―それでは浪曲の話に戻りまして、入門から5年間は出演している舞台など今と活動の仕方が違うようにも思います。

隼:年齢的なものが関係してたり、親戚の繋がりで観光協会の仕事を貰ったりしてましたね。

―今の精力的な活動を見ていると、物足りなさがあったかなと思ってしまうのですが、そこにモヤモヤ感はなかったですか。

隼:色々葛藤がありましたね。演歌浪曲をやってると、(自分のやりたい活動は)無理だったんです。演歌浪曲は初代真山一郎が作り上げたものなんですよね。だから、例えば長い節や三味線との掛け合いが魅力的な一般的な浪曲を演歌浪曲に置き換えてできないんですよ。

そういうことを考えていた時に藤信のお師匠さんに「あんたな、音でやってたらな、あんただけの物ができへんからな。わたし引いたるから、浪曲の基礎は三味線やから、三味線でやりや。わたしどこでも弾きに行ったるから。」って言われたんですよ。天下の藤信初子師匠に言われて嬉しかったですね。

―藤信師匠がそう言ったのは隼人さんに今後の浪曲界を担う存在になってほしいという思いがあったんでしょうね。

隼:そうかもしれないですね。それで三味線もやろうと思ったんですけど、当時はできなくて。葛藤してましたね。

―なるほど。当時は演目も今とは違うものをされてましたよね。

隼:師匠から「若いうちはしっかりしたのをやれ」って言われてたので、演目は難しいのばかりでした。「俵星玄蕃」「吉田松陰」「武蔵坊弁慶」「山本五十六」「大塩平八郎」「尾崎咢堂」…。いかにも営業ではウケない大会向きのやつですよ。

―たしかに。10代の隼人さんにはテーマが重いですね。

隼:だから、よぉやってたなって思いますね。「刃傷松の廊下」ももちろん難しいんですけど、当時のぼくがやってたネタは、しっかりした学者とかが出てくる晩年の初代真山一郎がやってたネタなんですよ。

―それは当時の隼人さんには難しいはずですね。そんな中でも印象に残っている演目はありますか。

隼:「吉田松陰」は先代にもテープで送ったりもして、聴いてもらいましたね。

―先代も隼人さんに教えてくださるのですね。

隼:丁寧に教えてくださいましたね。

―孫弟子ということもあって、可愛がってもらったのでしょうか。

隼:可愛がってもらいましたね。「初めの孫弟子じゃ。頑張ってくれよ。真山浪曲を頼むで」って言うてもらったんですけどね…。

ただ、ぼくはもう演歌浪曲はやってないですけど、今やってることは初代・真山一郎の精神を守ってると思ってます。己の浪曲をやってるわけですから、それは真山浪曲と言っても良いと思うんです。未だに真山の節は使いますし、根本に受け継いだ精神がありますから。

―自分の浪曲を突き詰めるということが、初代・真山一郎の精神であり、浪曲そのものですもんね。

隼:そうです。それが浪曲の魅力ですよ。

―そうですよね。そこの思いが強くあったからこそ、三味線の浪曲に進むわけですね。

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