咲くやこの花賞受賞/東京ツキイチ独演会 2022年5月号より

今回のインタビューは隼人さんとさくらさんです。取材する立場として、私が意識していることが二つあります。一つが取材相手から話を引き出すための準備で、もう一つがインタビューしながら盛り上がった話を拾っていくことです。要は準備はするけれど、予定調和にならないようにしています。出来ているかどうかはともかくとして。

で、今回のインタビューがまさにその場で話が展開されて、予想していたのとは違う内容になっています。良いことなんですけど、インタビュー中はうまくまとめられるのか不安になります。でも、家に帰って、録音を聞きなおすと、お二人の話の筋はしっかり通っている。そして、流れで話しているからこそ、隼人さんとさくらさんの本当言いたいことに少し迫れたのかなと思いました。

 なので、最初と最後で話が違いますが、それも魅力だと思っていただけると嬉しいです。喫茶店の横の席で三人が喋っているのを盗み聞きしている、そんな感覚でお読みください。

目次

1.咲くやこの花賞受賞

2.東京でのツキイチ独演会始まる

3.桂須磨子師匠が大阪へ


1.咲くやこの花賞受賞

―まずは3月に授賞式を終えた「咲くやこの花賞」について。受賞おめでとうございます。

隼:ありがとうございます。

―賞への思い入れをお聞きしてもいいでしょうか。

隼:大阪で弟子入りして、活動を続けている者として、やはり意識してましたよね。ぼくの尊敬している諸先輩方、師匠方が皆取ってる。だから、若手の時に何よりも欲しかったのは咲くやこの花賞ですよ。

―受賞を知った時は嬉しかったのではないですか。

隼:倒れてる時に集中治療室で第一報を聞いたんですけど、嬉しかったですね。何が何かわからんところで、まず咲くやこの花賞決まったよっていう話をもらって。

さ:その時、私が隼人くんの携帯を預かってたんですけど、電話がかかってきても誰か分からへんから取らへんかったら、咲くやこの花賞の担当の方からメールで連絡がきたんです。それで慌ててかけ直したら、向こうは隼人くんの受賞の意思を知りたいということやって。病院に電話しました。

隼:看護師の方から電話変わってもらって直接聞いたんですけど。嬉しかったですね。まだボーッとしてる時でしたけど、聞いた時はワンワン泣きましたね。だって、毎年「今年は僕かな」って気にしてましたから。

さ:お手製CD出した時とかね。

隼:そうですよ。そう思ってたらミルクボーイさんやって。ここには負けるわ。でも、その前から12月はいつもソワソワして待ってたんですよ。それが毎年「アカンなぁ、アカンなぁ」となってたのが、こんな土壇場になっていただいて。欲しかった賞がここで貰えるのかと思いました。

さ:嬉しかったね。本当にご褒美みたいに思いましたね。

―授賞式の後に、トロフィーにさくらさんの名前も書いてたのが印象に残りました。やはりさくらさんといっしょに受賞したという気持ちがあるのですよね。

隼:もちろんそうです。

―文化庁芸術祭新人賞を取り、咲くやこの花賞も取って、次に目指すものはありますか。

隼:ある。

―あるんですか。

隼:人間国宝。

さ:これは相当時間かかるやろ(笑)

隼:ぼくは浪曲界初の人間国宝は目指してますよ。

さ:人間国宝になるために、まず目指さないといけないのは健康ですね。

―長生きですね。

隼:でも、ちょっと咲くやこの花賞を取って落ち着いてしまったところはありますね。これもええかなと思います。今年で丸12年やって。欲しいものをいただいて、ちょっとゆっくり浪曲と向き合う。実はこの8月にぼくは旅に出るんですよ。

―何の旅ですか。

隼:浪曲の台本を探す旅。全国行脚一週間。

―いいですね。

隼:どこ行くかはもう決めてるんですよ。

―また面白そうなことをすぐに考えて実行しますね。

隼:そういう感じでぼくは30歳までに古い台本を書き起こして、30歳からは看板になるための独自の台本作りをします。浪曲という価値観と浪曲のやり方、呼吸、これを分かった上で、独自の台本を作ることが大切なんです。ぼくはこれまで色んな人に教えてもらってきましたけど、今から30歳までは自分自身で古い台本と向き合って、浪曲のパターンを勉強して、30歳からは新しい台本を作っていこうと思います。

やっぱりそれは15歳からやってきたからこその強みなんですよ。下地を作る時間が長ったんです。15歳から入って、初めはモノマネ、今は自分なりに古い台本を研究しながらやってる、だから30歳になったら完全にオリジナルの台本をできると思ってるんですよ。そのために今は型を吸収する。今オリジナルをやっても、お家のモノには勝たれへん。まぁとにかく勉強です。時間がある分、下地を作る。下地を作ると別のことができる。これは自分の強みですし、これで差をつけんと自分の意味がないでしょう。

さ:大人になって、分別もセンスも身につけてから入ってくる人の良さもあるんやけどね。そういう人は急がないといけないから。

隼:そう。そういう人もいいねん。ぼくも羨ましい部分もあるんやけど、急がないといけないからね、早くやらないとアカンのです。例えば阪田さんが今入ったら、急がないとダメですよ。

さ:33歳やったら間に合わんことないけど、浪曲とは何ぞやからのんびりやれないからね。

―浪曲に理屈から入ってしまいそうです。それに対して、隼人さんは浪曲が身体に染み込んでるのがよく分かります。どうやっても浪曲になる感じがあります。

隼:それは思いますね。

今は賞レースからやっと抜けられたと思って、ぼくはホッとしてる。これまでは他の人より早く取りたいとか邪念があったんですよ。それが今はなくなりました。

これから中堅になっていく難しさはありますね。年季だけを重ねていくのではなく、やはり中堅になる勉強が必要なわけで。これは新しいステージですよ。だから、30歳までは旅に出て古い台本を探していこうと思います。

―そこまで明確に次の方向性が見えてるのがすごいと思います。

さ:浪曲のパターンというのが、おこがましいけど、お互いに見えてきた部分があるかなと思うんですよ。でも、それがパターンやとしても、それに上乗せしていくことが必要で、もっといい浪曲のパターンがあるはずやから。

隼:あるはず。

さ:それを近い例で言えば、百合子師匠と大林のお師匠さんで、お二人が浪曲のパターンを一つ上に上げたと思うんですよ。それを私たちもやりたいね。

隼:やりたいね。

さ:でも、百合子師匠とか大林のお師匠さんまでは全然至らないどころか、ジャンプしても届いてないんで。

隼:あんな人らと同じ時代にいたら勝たれへんって思って終わりや。

さ:あんな風に浪曲のパターンを使った芸術作品を作り上げた人たちがおんねんから。ホンマは超えたいんですけど、私らなりのものは作りたいと思ってます。

隼:作りたいね。

2.東京でのツキイチ独演会始まる

―次は今年から始まった毎月の木馬亭での独演会についてお聞きします。これは東京という土地の面でもキャパの面でも新しい挑戦かと思います。始めたきっかけを教えてください。

隼:にぎわい座の布目さんから東京でも定期的に会をやったらどうかと言われて、既に月例会をやってる太福兄さんにも相談して、木馬亭にも協力していただいて、できることになりました。東京の浪曲といえば木馬亭であって、そこで定席も出て、独演会もやる。おこがましいですけど、会ができるのなら浪曲への恩返しのつもりで一生懸命やろうと思ったわけです。

―東京という場所は特別ですか。

隼:そりゃぼくら上方もんですからね。でも、このさくらさんという人は沢村豊子師匠の弟子で、元は東京にいましたから、ぼくは助けてもらっているところもあります。大阪と比べての話だと、浪曲の小部屋なら、言い方が難しいですけど、甘えはあるんですよね。

―よく来てるお客さんだと、どういう浪曲を求めてるかも掴みやすいですよね。木馬亭は月に一回なので、その照準を定めるまでの時間がかかりそうです。

隼:だから、ぼくが思ってるのは歌舞伎のように外題を選定して三席やってます。昔の一座の構成を一人でやるようなもんです。例えば誰もやってないやつとか、よくやるやつ、変わったやつとか。そういう感じの三席。

―お客さんに来てもらうための工夫を構成面からも考えてるわけですね。

隼:これは自主公演なんで、集客の面でも自己責任なんですよ。

―そこに覚悟を感じます。

隼:おかげさまで前回もたくさん入ってもらって。開催一週間前まで心配だったんですけど、蓋開けてみたら自分史上歴代二番目の多さで。

さ:SNSとかで頑張って宣伝したら、それを見てくれはったみたいでな。

隼:終わる時にはちょっと涙出ましたよ。

―そこで来てくれるのは、お客さんにも隼人さんに対する特別な思いがあるからでしょうね。

この東京公演を続けていくことで、目標にしていることはありますか。

隼:普通の浪曲を満遍なく普通に楽しく聞いてもらうこと。ぼくは大阪もんですけど、大阪もんとか関係なく、浪曲として聞いてもらえるようになりたいですね。

あと、チラシも自分で作ってる手前、ひと月が早いんですよ。会が終われば二月後のチラシを作り始めなアカン。そういうのも今はめっちゃ不安になりながらやってますけど、ある時から安定すると思ってるんですよ。浪曲の小部屋もやり始めた時は大変でしたけど、安定してできるようになりましたから。そういう感じで木馬亭でも、自分の会として安定してできるようになりたいと思ってます。

―そこまで行くとまた一つステージが上がった気がしますね。

隼:そうですね。あと、本当にみんなが月一独演会やったらいいと思ってます。難しい部分もあるかもしれんけど、そのためにみんなが命かけてやらなアカンと思うのは、外題を増やして、勉強して毎回来るお客さんに楽しんでもらう工夫。これが今やるべき踏ん張りどころですよ。ぼくも今ゲストを呼ぶ余裕もないですよ。それでも安定するまで一生懸命やるしかないです。

―浪曲界全体が盛り上がるきっかけにもなってほしいですね。

さくらさんは東京で活動されていた頃もありますが、再び定期的に木馬亭に出演するようになって以前との違いを感じる部分はありますか。

さ:それはもちろんありますよ。若い人が沢山入門されたのもそうですし、私が入門した頃は木馬亭もツバナレしないことがありましたからね。

―ツバナレしないこともありましたか。

さ:全然ありましたよ。

―それを聞くと、当時からかなり状況が変わってますけども、それは何ででしょうか。

隼:それは武春師匠と福太郎師匠、その後の奈々福姉さん、太福兄さん、一太郎兄さんの存在でしょう。

さ:あの時代に武春師匠が出て、浪曲っていう単語を世間に広めてくれたと思うんです。浪曲を浪曲らしく頑張ったらいいっていう環境を作ってくれたんですよね。

隼:その通りやと思う。

さ:だから、今は私たちはちゃんと浪曲をやったらいい。そう思いましたね。

隼:やっぱり武春師匠がきっかけであると思います。

3.桂須磨子師匠が大阪へ

―最後は桂須磨子師匠のことをお聞かせください。桂須磨子師匠が浪曲の小部屋に出演します。隼人さんはどんな舞台を期待されてますか。

隼:舞台に関してはもう引退されてるんで、歌謡浪曲は数分かなと。それと色々お話を聞きたいですね。桂須磨子師匠がすごいのは虎造先生が横綱だった時代に、桂須磨子師匠も横綱を張ってる番付が何枚かあるわけですよ。

―その時代の横綱ってすご過ぎません。

隼:入門が昭和27年で、昭和30年前後にもう横綱なってるんです。でも朝日座の浪曲大会が主流の中で、朝日座にはほぼ出ずに、浪曲親友協会とは別のところで桂須磨子一座で全国巡業してたわけです。春野百合子師匠も(初代)京山幸枝若師匠も昭和40年代後半までは一座で回ってたんですが、桂須磨子師匠はそのやり方で平成8年までやったんです。

―みんながやり方を変えても、30年そのやり方で商売を続けたわけですか。

隼:平成7年の舞台のビデオを持ってるんですけど、それを見てても、こんなやり方があるんやと発見があるんです。

―そのあたりの話は浪曲ファンは必聴ですね。

隼:桂須磨子師匠は初代春野百合子、初代京山小円嬢、二代目天中軒雲月といっしょに看板を張ってた初代巴うの子の孫弟子であり、旦那さんは巴うの子の後援会長やった人ですよ。だから、女流浪曲を語る上でかなり重要な位置にいて。浪曲を知ってる人は皆知ってる方なんです。

僕も大十レコードで買って、ずっとファンですよ。シンセサイザーを使い、生バンド演奏で。これは看板だなと思いましたね。

この桂須磨子師匠に聞きたいのは、今の浪曲の歴史って協会を主とした歴史が語られてるんですよ。でも、それではない昔ながらの巡業を主とした歴史を振り返ってみたいと思います。

―それは気になりますね。ちなみに、桂須磨子師匠が看板と言われた理由はどこにあると思いますか。

隼:自分自身のオリジナルの浪曲をやるかのが看板ですね。桂須磨子師匠は自分自身の台本もいっぱいあって、一座を組んで、全国行脚をした。さらにすごいのが、浪曲界で初めてワイヤレスマイクを使ったのが桂須磨子師匠なんです。あと、女性だけの一座で全国回ったのも桂須磨子師匠が初めて。

―そういうオリジナリティや開拓精神にも溢れてるわけですか。

隼:本当に聞きたいこといっぱいあるんですよ。だから、当日はお客さんを置いてきぼりにしても聞く。いや、お客さんの前やからこそ聞きたい。

―聞いてみたいことがいっぱいありますね。この機会を作った隼人さんはまた一つ浪曲に恩返ししたのではないでしょうか。

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